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巡査辞職
じゅんさじしょく
作品ID920
著者夢野 久作
文字遣い新字新仮名
底本 「夢野久作全集4」 ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年9月24日
初出「新青年」1935(昭和10)年11~12月
入力者柴田卓治
校正者小林繁雄
公開 / 更新2000-05-25 / 2014-09-17
長さの目安約 65 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

   前篇


「草川の旦那さん。大変です。起きて下さい。モシモシ。起きて下さい。私は深良一知です」
 暑い暑い七月の末の或る早朝であった。山奥の谷郷村駐在所の国道に面したホコリだらけの硝子戸をケタタマシク揺ぶりながら、一人の青年が叫んだ。
 それは見るからにここいらの貧乏百姓の児と感じの違った、インテリじみた色の白い鼻筋のスッキリとした美しい青年であった。青々と乱れた頭髪が、白い額の汗に粘り付いていたが、神経の激動のために、その濃い眉がピクピクと波打って、赤い小さな、理智的な唇がワナワナとわななきながらも、その睫毛の長い黒い瞳は、いい知れぬ恐怖のためであろう。半面を蔽うた髪毛の蔭から白いホコリの溜った硝子戸の割れ目を凝視したまま、奇妙にヒッソリと澄んでいた。慌てて走って来たものと見えて、手拭浴衣の寝巻に帯も締めない素跣足が、灰色の土埃にまみれている。
 ……と……駐在所の入口になっている硝子戸が内側からガタガタと開いて、色の黒い、人相の悪い顔に、無精鬚を蓬々と生した、越中褌一つの逞ましい小男が半身を現わした。
「どうしたんか」
「アッ。草川の旦那さん」
 草川巡査は睡そうな眼をコスリコスリ青年の顔を見直した。
「何だ。一知じゃないかお前は……」
「はい。あの……あの……両親が殺されておりますので……」
「何……殺されている? お前の両親が……」
「はい。今朝、眼が醒めましたら、台所の入口と私の枕元に在る奥の間の中仕切が開け放しになっておりましたから、ビックリして奥の間の様子を見に行ってみますと、お父さんと、お母さんが殺されております。蚊帳が釣ってありますので、よくわかりませんが、枕元の畳と床の間のあいだが一面、血の海になっております」
「いつ頃殺されたんか。今朝か……」
「……わかりません。昨夜……多分……殺された……らしう御座います」
「泣くな――。たしかに死んでいるのだな」
「……ハイ……ツイ、今しがた、神林医師を起して、見に行ってもらいましたが……まだ行き着いて御座らぬでしょう」
「うむ。一寸待て……顔を洗って来るから」
 草川巡査は、裸体のまま直ぐに裏口へ出て、冷たい筧の水で顔を洗った。それから大急ぎで蚊帳と寝床を丸めて押入に投込んで、机の上に散らばっていた高等文官試験準備用の参考書や、問題集を二三冊、手早く重ねて片付けると今一度、駐在所の表口へ顔を出した。
「一知……」
「ハイ」
「こっちへ這入れ、足は洗わんでもええから……」
 二人は駐在所の板の間に突立ったまま向い合った。草川巡査の小さな茶色の瞳は、モウ神経質にギロギロと輝き出していた。
「何時頃殺されたんか。わかっとるか」
 一知は潤んだ大きな眼をパチパチさせた。
「……わかりません。昨夜十二時頃寝ましたが、今朝起きてみますと、モウ殺されておりましたので……蚊帳越しですからよくわかりませんが…

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