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哀しき父
かなしきちち
作品ID1070
著者葛西 善蔵
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本文學大系 49 葛西善藏 嘉村礒多 相馬泰三 川崎長太郎 宮路嘉六 木山捷平 集」 筑摩書房
1973(昭和48)年2月5日
入力者林田清明
校正者松永正敏
公開 / 更新2000-09-21 / 2014-09-17
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 彼はまたいつとなくだん/\と場末へ追ひ込まれてゐた。
 四月の末であつた。空にはもや/\と靄のやうな雲がつまつて、日光がチカ/\桜の青葉に降りそゝいで、雀の子がヂユク/\啼きくさつてゐた。どこかで朝から晩まで地形ならしのヤートコセが始まつてゐた……。
 彼は疲れて、青い顔をして、眼色は病んだ獣のやうに鈍く光つてゐる。不眠の夜が続く。ぢつとしてゐても動悸がひどく感じられて鎮めようとすると、尚ほ襲はれたやうに激しくなつて行くのであつた。
 今度の下宿は、小官吏の後家さんでもあらうと思はれる四十五六の上さんが、ゐなか者の女中相手につましくやつてゐるのであつた。樹木の多い場末の、軒の低い平家建の薄暗くじめ/\した小さな家であつた。彼の所有物と云つては、夜具と、机と、何にもはひつてない桐の小箪笥だけである。桐の小箪笥だけが、彼の永い貧乏な生活の間に売残された、たつたひとつの哀しい思ひ出の物なのであつた。
 彼は剥げた一閑張の小机を、竹垣ごしに狭い通りに向いた窓際に据ゑた。その低い、朽つて白く黴の生えた窓庇とすれ/\に、育ちのわるい梧桐がひよろ/\と植つてゐる。そして黒い毛虫がひとつ、毎日その幹をはひ下りたり、まだ延び切らない葉裏を歩いたりしてゐるのであつたが、孤独な引込み勝な彼はいつかその毛虫に注意させられるやうになつてゐた。そして常にこまかい物事に対しても、ある宿命的な暗示をおもふことに慣らされて居る彼には、その毛虫の動静で自然と天候の変化が予想されるやうにも思はれて行くのであつた。
 孤独な彼の生活はどこへ行つても変りなく、淋しく、なやましくあつた。そしてまた彼はひとりの哀しき父なのであつた。哀しき父――彼は斯う自分を呼んでゐる。

 彼にはこれから入梅へかけての間が、一年中での一番堪へ難い季節になつてゐた。彼は此頃の気候の圧迫を軽くしよう為めに、例年のやうに、午後からそこらを出歩くことにしようと思つた。けれども、それを続ける事はつらいことでもある。カーキ色の兵隊を載せた板橋火薬庫の汚ない自動車がガタ/\と乱暴な音を立てて続いて来るのに会ふこともあつた。吊台の中の病人の延びた頭髪が眼に入ることもあつた。欅の若葉をそよがす軟い風、輝く空気の波、ほしいまゝな小鳥の啼声……しかし彼は、それらのものに慄へあがり、めまひを感じ、身うちをうづかせられる苦しさよりも、尚堪へ難く思はれることは町で金魚を見ねばならぬことであつた。
 金魚と子供とは、いつか彼には離して考へることの出来ないものになつてゐた。



 彼はまだ若いのであつた。けれども彼の子供は四つになつてゐるのである。そして遠い彼の郷里に、彼の年よつたひとりの母に護られて成長して居るのであつた。
 彼等は――彼と、子と、子の母との三人で――昨年の夏前までは郊外に小さな家を持つていつしよに棲んでゐたのである。世…

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