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作品ID | 1120 |
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著者 | 夢野 久作 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「夢野久作全集3」 ちくま文庫、筑摩書房 1992(平成4)年8月24日 |
入力者 | 柴田卓治 |
校正者 | kazuishi |
公開 / 更新 | 2000-10-25 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 26 ページ(500字/頁で計算) |
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脱獄囚の虎蔵は、深夜の街道の中央に立ち悚んだ。
黒血だらけの引っ掻き傷と、泥と、ホコリに塗みれた素跣足の上に、背縫の開いた囚人服を引っかけて、太い、新しい荒縄をグルグルと胸の上まで巻き立てている彼の姿を見たら、大抵の者が震え上がったであろう。毬栗頭を包んだ破れ手拭の上には、冴え返った晩秋の星座が、ゆるやかに廻転していた。
虎蔵はそのまま身動き一つしないで、遥か向うの山蔭に光っている赤いものを凝視していた。その真白く剥き出した両眼と、ガックリ開いた鬚だらけの下顎に、云い知れぬ驚愕と恐怖を凝固させたまま……。
それは虎蔵が生れて初めて見るような美しい、赤い光りであった。それは彼が永いこと飢え、憧憬れて来たチャブ屋の赤い光りとは全然違った赤さであった。又、彼が時々刻々に警戒して来た駐在所や、鉄道線路の赤ラムプの色とも違っていた。ネオンサインの赤よりもズット上品に、花火の赤玉よりもズットなごやかな、綺麗なものであった。……といって閨房の灯らしい艶媚しさも、ほのめいていない……夢のように淡い、処女のように人なつかしげな、桃色のマン丸い光明が、巨大な山脈の一端らしい黒い山影の中腹に、ほのぼのと匂っているのであった……ほほえみかけるように……吸い寄せるように……。
虎蔵はブルッと一つ身震いをした。口の中でつぶやいた。
……まさか……手がまわっている合図じゃあんめえが……ハアテ……。
虎蔵は一箇月ばかり前に、網走の監獄を破った五人組の一人であった。その中でも、ほかの四人は、それから一週間も経たないうちにバタバタと捕まってしまったので、今では全国の新聞の注意と、北海道の全当局の努力を、彼一人に集中させているのであった。
そればかりでない。
虎蔵の強盗時代の仕事ぶりは「ハヤテの虎」とか「カン虎」とかいう綽名と一緒に、ズット以前から、世間の評判になっていた。
綽名の通りカンの強い彼は、脅迫のために人を傷ける場合でも、決して生命を取るようなヘマをやらないのを一つの誇りにしていた。……のみならず彼は仕事をした界隈で、決して女にかからなかった。遥かの遠い地方に飛んで、絶対安全の見込みが付いた上でなければ、ドンナ事があっても酒と女を近付けなかった。そうして蓄積した不眠不休の精力とすばらしい溜め喰いと、無敵の健脚を利用した逃走力でもって、到る処の警戒線を嘲弄し、面喰らわせるのを、一本槍の逃走戦術にして来たものであった。
だからその虎蔵が、久し振りにその筋の手にあがると間もなく、網走の監獄を破って逃走したという一事は、全国のセンセーションを捲き起すのに十分であった。況んや、それが一箇月もの永い間、縛に就かない事が一般に知れ渡ってしまった今日、結局……「虎蔵が北海道を出ないうちに捕まるか、捕まらないか」という問題が、全国の紙面に戦慄的な興味を渦巻かせているのは当然であっ…