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聖書
せいしょ
作品ID1151
著者生田 春月
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の名随筆 別巻100 聖書」 作品社
1999(平成11)年6月25日
入力者加藤恭子
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2005-05-13 / 2014-09-18
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 今日来て見ると、Kさんの書卓の上に、ついぞ見なれぬ褐色のきたない三六版ほどの厚い書物が載っていた。
「先生、それは何です?」と訊くと、
「まあ見たまえ」と、ワイルドの『デ・プロフンディス』や、Kさんの大好きなスウィンバアンやアーサア・シモンズの詩集の下から引出して、僕の手に渡してくれた。見るといかにも古色蒼然たるものだ。全部厚革で、製本はひどく堅牢だ。革はところどころはげたり、すりむけたりしている。縁も煤けている。何だかこう漁師町の娘でも見るような気がする。意外に軽い。
 無雑作に開いて見ると、これは聖書だった。細い字が隙間なしに植えてある。まんざら漁師町に関係のないこともないと思って、
「聖書ですね」とKさんを見ると、Kさんのその貴族的な、いかにも旗本の血統を承けているらしいすっきりした顔は、微笑にゆるんで、やや得意の色があった。
「掘出し物だ。ヴィクトリア朝のものじゃない、どうしても百年前のものだね」
「へえ」と今更感心して見る。
「夜店で買ったんだ。初め十銭だって云ったが、こんなもの買う人はありゃしない、五銭に負けろと、とうとう五銭で買って来た。さあ、どうしてあんなところにあったものかなァ」
「へえ、五銭……夜店で」と僕は驚いたような声を出した。この貴族的な詩人が五銭で聖書を買っている光景を眼前に描き出して、何とも云えず面白い気持がした。が、そのすぐあとから、自分が毎日敷島を二つ宛喫うことを思出して、惜しいような気がした。何が惜しいのかわからないが、兎に角惜しいような気がする。
 むやみにいじくって見る。何やら古い、尊い香がする。――気が付くと、Kさんの話はいつの間にかどしどしイプセンに進んでいた。イプセンと聖書、イプセンは常に聖書だけは座右を離さなかったというから、これもまんざら関係がないでもないと思う。
 Kさんが立って呼鈴を押すと、とんとんとんと、いかにも面白そうに調子よく階段を踏んで、女中さんが現れた。僕がこっそり好きな女中さんで、頬っぺたがまるく、目が人形のようにぱっちりしていて、動作がいかにもはきはきしていて、リズミカルだ、さすがに詩人の家の女中さんだと来る度に感心する。
 僕は聖書を書卓の上に置いて、目の前にあった葉巻を一本取上げた。「さあ、葉巻はどうです」と二度ほど勧められて、もう疾くに隔ての取れた間なのに、やっぱり遠慮していたその葉巻だ。女中さんは妙にくすりと云ったような微笑をうかべて僕の手つきを見て、それから若旦那の方を見て、
「あの、御用でございますか?」
「あのね、奥の居間の押入にね、ウィスキイとキュラソオの瓶があった筈だから、あれを持っておいで」
 女中さんが大形のウィスキイの瓶と妙な恰好をしたキュラソオの瓶とを盆に載せて持って来た時、Kさんは安楽椅子にずっと反身になって、上靴をつけた片足を膝の上に載せて、肱をもたげて半ば灰…

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