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聖書の読方
せいしょのよみかた |
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作品ID | 1218 |
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副題 | 来世を背景として読むべし らいせをはいけいとしてよむべし |
著者 | 内村 鑑三 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「日本の名随筆 別巻100 聖書」 作品社 1999(平成11)年6月25日 |
入力者 | 加藤恭子 |
校正者 | 小林繁雄、門田裕志 |
公開 / 更新 | 2005-05-13 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 17 ページ(500字/頁で計算) |
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十一月十五日栃木県氏家在狭間田に開かれたる聖書研究会に於て述べし講演の草稿。
聖書は来世の希望と恐怖とを背景として読まなければ了解らない、聖書を単に道徳の書と見て其言辞は意味を為さない、聖書は旧約と新約とに分れて神の約束の書である、而して神の約束は主として来世に係わる約束である、聖書は約束附きの奨励である、慰藉である、警告である、人はイエスの山上の垂訓を称して「人類の有する最高道徳」と云うも、然し是れとても亦来世の約束を離れたる道徳ではない、永遠の来世を背景として見るにあらざれば垂訓の高さと深さとを明確に看取することは出来ない。
「心の貧しき者は福なり」、是れ奨励である又教訓である、「天国は即ち其人の有なれば也」、是れ約束である、現世に於ける貧は来世に於ける富を以て報いらるべしとのことである。
哀む者は福なり、其故如何? 将さに現われんとする天国に於て其人は安慰を得べければ也とのことである。
柔和なる者は福なり、其人はキリストが再び世に臨り給う時に彼と共に地を嗣ぐことを得べければ也とのことである、地も亦神の有である、是れ今日の如くに永久に神の敵に委ねらるべき者ではない、神は其子を以て人類を審判き給う時に地を不信者の手より奪還して之を己を愛する者に与え給うとの事である、絶大の慰安を伝うる言辞である。
饑渇く如く義を慕う者は福なり、其故如何? 其人の饑渇は充分に癒さるべければ也とのことである、而して是れ現世に於て在るべきことでない事は明である、義を慕う者は単に自己にのみ之を獲んとするのではない、万人の斉く之に与からんことを欲するのである、義を慕う者は義の国を望むのである、而して斯かる国の斯世に於て無きことは言わずして明かである、義の国は義の君が再び世に臨り給う時に現わる、「我等は其の約束に因りて新しき天と新しき地を望み待り義その中に在り」とある(彼得後書三章十三節)、而して斯かる新天地の現わるる時に、義を慕う者の饑渇は充分に癒さるべしとのことである。
矜恤ある者は福なり、其故如何? 其人は矜恤を得べければ也、何時? 神イエスキリストをもて人の隠微たることを鞫き給わん日に於てである、其日に於て我等は人を議するが如くに議せられ、人を量るが如くに量らるるのである、其日に於て矜恤ある者は矜恤を以て審判かれ、残酷無慈悲なる者は容赦なく審判かるるのである、「我等に負債ある者を我等が免す如く我等の負債を免し給え」、恐るべき審判の日に於て矜恤ある者は矜恤を以て鞫かるべしとの事である。
心の清き者は福なり、何故なればと云えば其人は神を見ることを得べければなりとある、何処でかと云うに、勿論現世ではない、「我等今(現世に於て)鏡をもて見る如く昏然なり、然れど彼の時(キリストの国の顕われん時)には面を対せて相見ん、我れ今知ること全からず、然れど彼の時には我れ知らるる如く…