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![]() さんかくけいのきょうふ |
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作品ID | 1228 |
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著者 | 海野 十三 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」 三一書房 1990(平成2)年10月15日 |
初出 | 「無線電話」1927(昭和2)年4月号 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | ペガサス |
公開 / 更新 | 2002-11-06 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 25 ページ(500字/頁で計算) |
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それじゃ今日は例の話をいよいよすることにしますかな。罪ほろぼしにもなりますからね。そうです。罪ほろぼしです。私の若い時のね。いや艶っぽいことなんか身に覚えはありませんから、アテられるなんて事はありませんよ。それは罪は罪だと思いますよ、今でもね。そうです、もう二十年も昔になりましょうか。先帝陛下が御崩御になって中野の先の浅川に御陵が出来た頃の話なんですよ。
その当時私はW大学へ通っていました。随分若こうござんしたよ。今見たいにこんなにデクデク肥っちゃいませんが、中肉中背という奴で頬っぺたも赤くて、桜の蕾かなんぞのように少しふくらんでいましたよ。亡くなった姉のお友達に電車の中なぞで行き合うと、
「宗夫さんはいつ見てもコドモさんですわねえ」
と懐しがられたものですよ。やあこんな風なことは言わない御約束でしたね。これは失敬。
其のころ私の家は東中野にありました。中野の辺を省線電車で通りますと、淀橋の瓦斯タンクより右の方へ三十度ばかり傾いたところにこんもりとした森が見えますが、あの森の直ぐ下でした。御承知の通り関東一帯に特有な大きい杉の森でして、近所では他のどこの場所よりも高い梢を持っていまして、遠方から見ると天狗の巣でもありやしないかと思われる位でした。私の家は、その塔の森と呼ばれる真暗な森と、玉川上水のあとである一筋の小川を距てて向い合っていました。どっちかと言うと一寸陰気な、そして何となく坊主頭に寒い風が当るともいったような感じのするところでした。
ですから学校に居る間は大学生の中にもこんなふざけ方をして喜んでいる無邪気な奴が居るかと思われるように陽気に振舞っていましたが学校がすんでから電車を東中野駅で捨てて、それから家まで五六丁ほどの道のりを歩いて行くうちにいつとはなく考え込んでしまうのです。帰って来て小川の縁に立ちかぶさるように拡った塔の森を仰ぐと今までの快活が砂地に潮がひくかのようにすっと消えてしまって、眼の下に急に黒い隈が出来たような気になるのでした。
そうなるといつまでも黙りむっつりとして其の日教わって来た数学の定理の証明を疑ってみたり、其の頃流行の犯罪心理学の書物に読み耽ったり、啄木ばりの短歌を作ったりしていました。
そんな調子の生活の中から私は遂に一つのトピックスをみつけ出したものです。それは例の犯罪心理学の書物と、自分の勉強している数学との両方から偶然に醗酵して来たものであったのです。私の考えでは人間が脅迫の観念に襲われる場合に其の対象となるものは、平常其の人間がついうっかり忘れていたとか、気をつけていなかったものに偶然注意が向けられた結果、急に其のものに対する注意が鈍くなって遂に一つの脅迫観念が萌え上って行くのであって、其の対象となるものが単純で、且つ至るところに存在しているもの程、脅迫観念を加速度的に生長せしめるのではないかと思…