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崖の下
がけのした
作品ID1336
著者嘉村 礒多
文字遣い旧字旧仮名
底本 「日本文學全集 34 梶井基次郎 嘉村礒多 中島敦集」 新潮社
1962(昭和37)年4月20日
入力者伊藤時也
校正者小林繁雄
公開 / 更新2001-03-09 / 2014-09-17
長さの目安約 37 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 二月の中旬、圭一郎と千登世とは、それは思ひもそめぬ些細な突發的な出來事から、間借してゐる森川町新坂上の煎餅屋の二階を、どうしても見棄てねばならぬ羽目に陷つた。が、裏の物干臺の上に枝を張つてゐる隣家の庭の木蓮の堅い蕾は稍色づきかけても、彼等の落着く家とては容易に見つかりさうもなかつた。
 圭一郎が遠い西の端のY縣の田舍に妻と未だほんにいたいけな子供を殘して千登世と駈落ちして來てから滿一年半の歳月を、樣々な懊惱を累ね、無愧な卑屈な侮らるべき下劣な情念を押包みつゝ、この暗い六疊を臥所として執念深く生活して來たのである。彼はどんなにか自分の假初の部屋を愛し馴染んだことだらう。罅の入つた斑點に汚れた黄色い壁に向つて、これからの生涯を過去の所爲と罪報とに項低れ乍ら、足に胼胝の出來るまで坐り通したら奈何だと魔の聲にでも決斷の臍を囁かれるやうな思ひを、圭一郎は日毎に繰返し押詰めて考へさせられた。
 圭一郎は先月から牛込の方にある文藝雜誌社に、この頃偶然事から懇意になつた深切な知人の紹介で入社することが出來た。彼の歡喜は譬へやうもなかつた。あの三多摩壯士あがりの逞しく頬骨の張つた、剛慾な酒新聞社の主人に牛馬同樣こき使はれてゐたのに引きかへて、今度はずゐぶん閑散な勿體ないほど暢氣な勤めだつたから。しかしそれも束の間、場慣れぬせゐも手傳ふとは言へ、とかく世智に疎く、愚圖で融通の利かない彼は、忽ち同輩の侮蔑と嘲笑とを感じて肩身の狹いひけめを忍ばねばならぬことも所詮は致し方のない悉わが拙い身から出た錆であつた。圭一郎は世の人々の同情にすがつて手を差伸べて日々の糧を求める乞丐のやうに、毎日々々、あちこちの知名の文士を訪ねて膝を地に折つて談話を哀願した。が智慧の足りなさから執拗に迫つて嫌はれてすげなく拒絶されることが多かつた。時には玄關番にうるさがられて脅し文句を浴せられたりした。彼はひたすらに自分を鞭うち勵ましたが、日蔭者の身の、落魄の身の僻みから、夕暮が迫つて來ると味氣ない心持になつて、思ひ惱んだ眼ざしを古ぼけて色の褪せたくしや/\の中折帽の廂にかくし、齒のすり減つた日和の足を曳擦つて、そして、草の褥に憩ふ旅人の遣瀬ない氣持を感じながら、千登世を隱蔽してあるこの窖に似た屋根裏を指して歸つて來るのであつた。――彼女との結合の絲が、煩はしい束縛から、闇地を曳きずる太い鐵鎖とも、今はなつてゐるのではないかしら? 自分には分らない。彼は沈思し佇立つて荒い溜息を吐くのであつた。精一杯の力を出し生活に血みどろになりながらも、一度自分に立返ると荒寥たる思ひに閉されがちだ。何處からともなく吹きまくつて來る一陣の呵責の暴風に胴震ひを覺えるのも瞬間、自らの折檻につゞくものは穢惡な凡情に走せ使はれて安時ない無明の長夜だ。自分はこの世に生れて來たことを、哀しい生存を、狂亂所爲多き斯く在ることの、否定にも肯…

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