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![]() たばるざかのかっせん |
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作品ID | 1359 |
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著者 | 菊池 寛 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「日本合戦譚」 文春文庫、文芸春秋 1987(昭和62)年2月10日 |
入力者 | 大野晋、Juki、網迫 |
校正者 | 土屋隆 |
公開 / 更新 | 2009-10-22 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 21 ページ(500字/頁で計算) |
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西郷降盛が兵を率いて鹿児島を発したときの軍容は次の通りである。
第一大隊長 篠原 国幹
第二大隊長 村田 新八
第三大隊長 永山弥市郎
第四大隊長 桐野 利秋
第五大隊長 池上 四郎
第六大隊長 別府 晋介
大隊長は凡て、名にし負う猛将ぞろいである。殊に桐野利秋は中村半次郎と称して維新当時にも活躍した男である。各大隊は兵数ほぼ二千名位ずつであるから総軍一万二千である。各大隊には砲兵が加って居たが、その有する処は、四斤砲二十八門、十二斤砲二門、臼砲三十門であった。その外後に薩、隅、日の三国で新に徴集したもの、及、熊本、延岡、佐土原、竹田等の士族で来り投じたものが合せて一万人あった。この兵力に加うるに当時赫々たる西郷の威望があるのだから、天下の耳目を驚かせたのは当然である。
薩軍が鹿児島を発した日から南国には珍らしい大雪となって、連日紛々として絶えず、肥後との国境たる大口の山路に来る頃は、積雪腰に及ぶ程であった。しかし薩軍を悩したものは風雪だけであって、十八日から二十日に至る間、無人の境を行く如くして肥後に入った。西郷東上すとの声を聞いて、佐土原、延岡、飫肥、高鍋、福島の士族達は、各々数百名の党を為して之に応じて、熊本に来て合した。熊本の城下に於てさえ、向背の議論が生ずる有様で、ついに池辺吉十郎等千余人、薩軍に馳せ参ずることになった。
私学校の変に次いで、西郷起つとの報が東京に達すると、政府皆色を失った。大久保利通は、悒鬱の余り、終夜睡る事が出来なかったと云う。そして自ら西下して、西郷に説こうとしたが、周囲の者に止められた。岩倉具視も心配の極、勝安房をして行って説諭させんとした。これは江戸城明け渡しの因縁に依って、それを逆に行こうと云うわけであったが、勝が「全権を余に委任する上は、西郷の意を容れなければいけない。それでよろしいか」と云うに及んで、岩倉は黙し、ついにその事も行われなかった。
此年一月末明治天皇は畝傍御参拝の為軍艦に召されて神戸に御着、京都にあらせられた。陸軍中将山県有朋は、陛下に供奉して西下して居たが、西南の急変を知るや、直ちに奏して東京大阪広島の各鎮台兵に出動を命じた。而して自ら戦略を決定したが、この山県の戦略が官軍勝利の遠因を為したと云ってよい。山県は薩軍の戦略を想定して、
一、汽船にて直ちに東京或は大阪に入るか
二、長崎及熊本を襲い、九州を鎮圧し後中原に出るか
三、鹿児島に割拠し、全国の動揺を窺った後、時機を見て中央に出るか
この三つより他に無いと見た。之に対して官軍の方略は、敵がその何れの策に出づるを顧みず、海陸より鹿児島を攻むるにありとした。更に地方の騒乱を防ぐ為に、各鎮圧をして連絡厳戒せしむる事にした。以上が山県の策戦であるが、山県の想定に対して、薩軍はその第二想定の如く堂々の正攻法に拠ったのであった。
薩軍、…