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![]() ながしののかっせん |
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作品ID | 1360 |
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著者 | 菊池 寛 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「日本合戦譚」 文春文庫、文芸春秋 1987(昭和62)年2月10日 |
入力者 | 大野晋、Juki、網迫 |
校正者 | 土屋隆 |
公開 / 更新 | 2009-08-12 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 23 ページ(500字/頁で計算) |
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元亀三年十二月二十二日、三方ヶ原の戦に於て、信玄は浜松の徳川家康を大敗させ、殆ど家康を獲んとした。夏目次郎左衛門等の忠死なくんば、家康危かった。
信玄が、三方ヶ原へ兵を出したのは、一家康を攻めんとするのではなく、三河より尾張に入り岐阜を攻めて信長を退治し、京都に入らんとする大志があったからだ。
だから、三方ヶ原の大勝後その附近の刑部にて新年を迎え、正月十一日刑部を発して、三河に入り野田城を囲んだ。が、城陥ると共に、病を獲て、兵を収めて信州に入り、病を養ったが遂に立たず老将山県昌景を呼んで、「明日旗を瀬田に立てよ」と云いながら瞑目した。
信玄死後暫く喪を秘したが、いくら戦国時代でも、長く秘密が保たれるものではない。
信玄に威服していた連中は、後嗣の勝頼頼むに足らずとして、家康に[#挿絵]を通ずるものが多い。その最たるものは、作手城主奥平貞昌父子だった。
奥平家は、その地方の豪族だが、初め今川に属し、後徳川に附き、更に信玄に服し、今度勝頼に背いて、徳川に帰順したわけである。大国と大国との間に挾まる小大名、豪族などは一家の保身術として、彼方につき此方に付く外なかった。うまく、游泳してよい主人についた方が、家を全うして子孫の繁栄を得たわけである。
勝頼は、自分の分国の諸将が動揺するのを見、憤激して、天正二年正月美濃に入って明智城を攻略し、同じく五年には遠江に来って、高天神城を開城せしめた。家康は、わずか十里の浜松にありながら後詰せず、信長は今切の渡まで来たが、落城と聞いて引き返した。
勝頼の意気軒昂たるものがあったであろう。徳川織田何するものぞと思わせたに違いない。それが、翌年長篠に於て、無謀の戦いをする自負心となったのであろう。
翌天正三年二月、家康は新附の奥平貞昌をして、長篠城の城主たらしめた。
長篠城は、甲信から参遠へ働きかける関門である。武田徳川二氏に依って、屡々争奪されたる所以である。城は、豊川の上流なる大野川滝川の合流点に枕している。両川とも崖壁急で、畳壁の代りを成している。東は大野川が城濠の代りをなし、西南は滝川が代りを成している。
天正三年五月勝頼一万五千の大軍を以て、長篠を囲んだ。城兵わずかに五百、殊死して防いだ。
鳥井強右衛門勝商が、家康の援軍を求めるため、単身城を脱し、家康に見えて援兵を乞い、直ちに引き返して、再び城に入らんとし、武田方に囚われ、勝頼を詐いて城壁に近より、「信長は岡崎まで御出馬あるぞ、城之介殿は八幡まで、家康信長は野田へ移らせ給いてあり、城堅固に持ちたまえ、三日の裡運を開かせ給うべし」と叫んで、礫にせられたのは、有名な話であるから略する。
五月十八日、信長家康両旗の援軍三万八千、長篠の西方設楽の高原に、山野に充ちて到来した。
しかし、此の時の武田の軍容は、信玄死後と雖も、落ちていたのではない。信玄が死…