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鳥羽伏見の戦
とばふしみのたたかい |
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作品ID | 1365 |
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著者 | 菊池 寛 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「日本合戦譚」 文春文庫、文芸春秋 1987(昭和62)年2月10日 |
入力者 | 大野晋、Juki、網迫 |
校正者 | 土屋隆 |
公開 / 更新 | 2009-12-29 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 12 ページ(500字/頁で計算) |
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戦前の形勢
再度の長州征伐に失敗して、徳川幕府の無勢力が、完全に暴露された。この時既に長州は薩摩と連合して討幕の計画を廻らしていた。
温健派の山内容堂は、幕府の命運既に尽きたるを察して、幕府をしてその終りを全うせしむる意味で、大政奉還の止むなき所以を説いた建白書を、慶喜に呈した。当時在京中の慶喜悟る所あり、十月十三日在京の諸大名群臣を二条城に集めて諮問したる上、翌十四日朝廷へ奏問に及んだのである。
いずくんぞ知らん、その日は薩長二藩に対し、討幕の密勅が、下された日である。
即ち薩長や岩倉具視の肚では武力を以て圧倒しようとする所に、幕府の方から、頭を下げて来たのである。
王政維新の実を挙げ、朝廷の実力を発揮するためには、幕府に一撃を与えて、実力的に圧倒することが必要だと思っていたから、幕府からの大政奉還は、痛し痒しであったのである。
だから、それに対して、朝廷には二つ議論があった。その一つは、公武合体派で、慶喜の大政奉還の許を嘉賞して、新政府組織についても、慶喜に旧将軍にふさわしい一役を与えようと云うのである。他の一派は、岩倉を中心とする排幕派で、既に討幕の密勅も下っている所へ、大政奉還を申し出でたので、勝手が違ったが、たとえ武力で圧倒できなくなったにしろ、他の手段で、幕府の勢力を蹂躙しようと云うのである。
所が、排幕派の議論が勝利を占めて十二月九日、王政復古の号令が発せられ、アンチ徳川の連中は悉く復活し、公武合体派は参朝を禁ぜられてしまった。
その夜、小御所に於ける王政第一回の御前会議は、歴史的にも最も意義のある会合で、山内容堂、松平春嶽が大に慶喜のために説いたが、岩倉、大久保のために、容れられず、両派の論争激越を極め、一時休憩となったが、その時薩藩の岩下佐次衛門は、退席していた西郷隆盛に計ったところ、隆盛泰然として「口先では、果しがない。唯一匕首あるのみだ」と云った。岩下、之を岩倉に告げたので、具視大いに決する所あり、土越二藩尚前説を固執するならば、いかなる不測の変あらんも測られざるに至ったので、浅野茂勲その間に周旋して遂に容堂、春嶽をして譲歩せしめた。
岩倉説勝を占めて、その翌日慶喜に対し、将軍職辞退の聴許があり、更に退官納地を奉請するように、諭されることになった。
此の結果に対して、幕府の上下会桑二藩が、承服する筈はない。
慶喜が、大政奉還を奏請したる以上、その善後策の朝議には、慶喜を初め会桑二藩も当然参加せしめらるべきものと、期待していたに拘わらず、会桑二藩は禁門の警衛を解かれて了うし、慶喜は朝議に参加せしめられないばかりか、新政府に何等の座席をも与えられないのであるから、彼等の憤懣察すべきものである。
此時は、芸兵入京し、長兵も亦入京していたので、慕府及びその一統が、憤慨して手を出せば、やっつけてやろうと云う…