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少年の死
しょうねんのし |
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作品ID | 1392 |
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著者 | 木下 杢太郎 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「現代日本文學全集 17 小山内薫 木下杢太郎 吉井勇集」 筑摩書房 1968(昭和43)年4月5日 |
入力者 | 伊藤時也 |
校正者 | 小林繁雄 |
公開 / 更新 | 2001-01-19 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 46 ページ(500字/頁で計算) |
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八月の曇つた日である。一方に海があつて、それに鉤手に一連の山があり、そしてその間が平地として、汽車に依つて遠國の蒼渺たる平原と聯絡するやうな、或るやや大きな町の空をば、この日例になく鈍い緑色の空氣が被つてゐる。
大きな河が海に入る處では盛んな怒號が起つた。末廣がりになつた河口までは大河は全く平滑で、殆ど動とか力とかいふ感じを與へない、鼠一色の靜止の死物であるやうに見えて居ながら、一旦海の境界線と接觸を持つと忽ち一帶の白浪が逆卷き上り、そして(遠くから見て居ると)それが崩れかけた頃になつて(近くで聽いたならば、さぞ恐しい音響であらうと思はれるほどの)音響が、遠くの雷鳴のやうに響いた。
然しながらこの自然現象は、毎日毎日同樣に繰り返へされてゐるのだからして、町の住民には今更何等の印象をも與へない。靜かな曇り日に、數千の甍が遠く相並んでゐて、その間に往々神社佛閣の更に大きなものが聳え出てゐるのを瞰望してゐると、如何にも平和であるといふ氣が起つて來る。かの荒い海の背景がこの平和の印象を少しも壞さないのは寧ろ不思議である。それといふのも畢竟慣れといふことが感激を銷磨するからであらう。たとへ宗教心のない人でも、かう云ふ平和の俯瞰景を眺めたら、何かに祈りたいといふ氣を起すに相違ない。
この平和な都會は然し全く休息して居るのではない。外海の暴い怒號の外に、なほ町自身の膊動がある。何かと云ふとそれはかの平地を驅けつて來る汽車である。
忽ち長大の一物が山の鼻のところへ形を現はす。忽ち警戒の汽笛を鳴らす。傍目もふらずかたことと驅けて來るのを見ると、器械力と云ふよりも一動物の運動といふ感じがするのである。忽ち停車場に達する。笛を鳴らす。停車する。人々が停車場の構内から出る。かういふ活動が往復合せて一日に十四囘あるが、かの大河と海との大爭鬪よりもむしろこの方が活動の印象に富んで居て、そしてこの平和の町に一味の生氣を賦して居るのである。
遠海も、大河も、町の家並も、汽車も、凡て八月のこの曇つた一日を平和に送つてゐるらしく見えた。
所が停車場からさう遠くない小高い所に一軒のしもた屋があつた。まだ年の少い一人の男の子が時々その屋根の上に登つてゐた。誰も然しこの少年に特別の注意をするものとてはなかつた。と云ふのは今日朝から始終その少年の行動を注視したものは誰もなかつたからである。もしさうしたならばその人には多少不思議な感じを起したかも知れない。何故となるとこの少年はたつた一度屋根へ登つたのではないからである。午前の十時ごろにも登つた。正午にも登つた。そして二時過ぎにも登つたのである。更に注意深い人はこの時刻が全く偶然的のものではないと云ふことに氣が付く筈であつた。といふのはその時刻こそは、東京からの汽車がこの町の停車場に着く時であつたからである。即ちこの少年はこの町に着く汽車に…