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湯ヶ原ゆき
ゆがわらゆき |
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作品ID | 1407 |
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著者 | 国木田 独歩 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「定本 国木田独歩全集 第四巻」 学習研究社 1971(昭和46)年2月10日、1978(昭和53)年3月1日増訂版 |
入力者 | 鈴木厚司 |
校正者 | mayu |
公開 / 更新 | 2001-11-07 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 16 ページ(500字/頁で計算) |
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一
定めし今時分は閑散だらうと、其閑散を狙つて來て見ると案外さうでもなかつた。殊に自分の投宿した中西屋といふは部室數も三十近くあつて湯ヶ原温泉では第一といはれて居ながら而も空室はイクラもない程の繁盛であつた。少し當は違つたが先づ/\繁盛に越した事なしと斷念めて自分は豫想外の室に入つた。
元來自分は大の無性者にて思ひ立た旅行もなか/\實行しないのが今度といふ今度は友人や家族の切なる勸告でヤツと出掛けることになつたのである。『其處に骨の人行く』といふ文句それ自身がふら/\と新宿の停車場に着いたのは六月二十日の午前何時であつたか忘れた。兔も角、一汽車乘り遲れたのである。
同伴者は親類の義母であつた。此人は途中萬事自分の世話を燒いて、病人なる自分を湯ヶ原まで送り屆ける役を持て居たのである。
『どうせ待つなら品川で待ちましようか、同じことでも前程へ行つて居る方が氣持が可いから』
と自分がいふと
『ハア、如何でも。』
其處で國府津までの切符を買ひ、品川まで行き、其プラツトホームで一時間以上も待つことゝなつた。十一時頃から熱が出て來たので自分はプラツトホームの眞中に設けある四方硝子張の待合室に入つて小さくなつて居ると呑氣なる義母はそんな事とは少しも御存知なく待合室を出て見たり入つて見たり、煙草を喫て見たり、自分が折り折り話しかけても只だ『ハア』『そう』と答へらるゝだけで、沈々默々、空々漠々、三日でも斯うして待ちますよといはぬ計り、悠然、泰然、茫然、呆然たるものであつた。其中漸く神戸行が新橋から來た。特に國府津止の箱が三四輛連結してあるので紅帽の注意を幸にそれに乘り込むと果して同乘者は老人夫婦きりで頗る空て居た、待ち疲れたのと、熱の出たのとで少なからず弱て居る身體をドツかと投げ下すと眼がグラついて思はずのめりさうにした。
前夜の雨が晴て空は薄雲の隙間から日影が洩ては居るものゝ梅雨季は爭はれず、天際は重い雨雲が被り重なつて居た。汽車は御丁寧に各驛を拾つてゆく。
『義母此處は梅で名高ひ蒲田ですね。』
『そう?』
『義母田植が盛んですね。』
『そうね。』
『御覽なさい、眞紅な帶を結めて居る娘も居ますよ。』
『そうね。』
『義母川崎へ着きました。』
『そうね。』
『義母お大師樣へ何度お參りになりました。』
『何度ですか。』
これでは何方が病人か分なくなつた。自分も斷念めて眼をふさいだ。
二
トロリとした間に鶴見も神奈川も過ぎて平沼で眼が覺めた。僅かの假寢ではあるが、それでも氣分がサツパリして多少か元氣が附いたので懲ずまに義母に
『横濱に寄らないだけ未だ可う御座いますね。』
『ハア。』
是非もないことゝ自分も斷念めて咽喉疾には大敵と知りながら煙草を喫い初めた。老人夫婦は頻りと話して居る。而もこれは婦の方から種々の問題を持出して居る…