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運命
うんめい
作品ID1452
著者幸田 露伴
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の文学 3 五重塔・運命」 ほるぷ出版
1985(昭和60)年2月1日
入力者kompass
校正者しだひろし
公開 / 更新2004-12-13 / 2014-09-18
長さの目安約 142 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 世おのずから数というもの有りや。有りといえば有るが如く、無しと為せば無きにも似たり。洪水天に滔るも、禹の功これを治め、大旱地を焦せども、湯の徳これを済えば、数有るが如くにして、而も数無きが如し。秦の始皇帝、天下を一にして尊号を称す。威[#挿絵]まことに当る可からず。然れども水神ありて華陰の夜に現われ、璧を使者に托して、今年祖龍死せんと曰えば、果して始皇やがて沙丘に崩ぜり。唐の玄宗、開元は三十年の太平を享け、天宝は十四年の華奢をほしいまゝにせり。然れども開元の盛時に当りて、一行阿闍梨、陛下万里に行幸して、聖祚疆無からんと奏したりしかば、心得がたきことを白すよとおぼされしが、安禄山の乱起りて、天宝十五年蜀に入りたもうに及び、万里橋にさしかゝりて瞿然として悟り玉えりとなり。此等を思えば、数無きに似たれども、而も数有るに似たり。定命録、続定命録、前定録、感定録等、小説野乗の記するところを見れば、吉凶禍福は、皆定数ありて飲啄笑哭も、悉く天意に因るかと疑わる。されど紛々たる雑書、何ぞ信ずるに足らん。仮令数ありとするも、測り難きは数なり。測り難きの数を畏れて、巫覡卜相の徒の前に首を俯せんよりは、知る可きの道に従いて、古聖前賢の教の下に心を安くせんには如かじ。かつや人の常情、敗れたる者は天の命を称して歎じ、成れる者は己の力を説きて誇る。二者共に陋とすべし。事敗れて之を吾が徳の足らざるに帰し、功成って之を数の定まる有るに委ねなば、其人偽らずして真、其器小ならずして偉なりというべし。先哲曰く、知る者は言わず、言う者は知らずと。数を言う者は数を知らずして、数を言わざる者或は能く数を知らん。
 古より今に至るまで、成敗の跡、禍福の運、人をして思を潜めしめ歎を発せしむるに足るもの固より多し。されども人の奇を好むや、猶以て足れりとせず。是に於て才子は才を馳せ、妄人は妄を恣にして、空中に楼閣を築き、夢裏に悲喜を画き、意設筆綴して、烏有の談を為る。或は微しく本づくところあり、或は全く拠るところ無し。小説といい、稗史といい、戯曲といい、寓言というもの即ち是なり。作者の心おもえらく、奇を極め妙を極むと。豈図らんや造物の脚色は、綺語の奇より奇にして、狂言の妙より妙に、才子の才も敵する能わざるの巧緻あり、妄人の妄も及ぶ可からざるの警抜あらんとは。吾が言をば信ぜざる者は、試に看よ建文永楽の事を。


 我が古小説家の雄を曲亭主人馬琴と為す。馬琴の作るところ、長篇四五種、八犬伝の雄大、弓張月の壮快、皆江湖の嘖々として称するところなるが、八犬伝弓張月に比して優るあるも劣らざるものを侠客伝と為す。憾むらくは其の叙するところ、蓋し未だ十の三四を卒るに及ばずして、筆硯空しく曲亭の浄几に遺りて、主人既に逝きて白玉楼の史となり、鹿鳴草舎の翁これを続げるも、亦功を遂げずして死せるを以て、世其の結構の偉、輪奐の美を…

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