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亡びゆく森
ほろびゆくもり
作品ID1464
著者小島 烏水
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆21 森」 作品社
1984(昭和59)年7月25日
入力者門田裕志
校正者大野晋
公開 / 更新2004-12-07 / 2014-09-18
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 伊勢山から西戸部の高地一帯(久保山を含んで)にかけて、昔は、可なりに深い森林があつたらうと思はれる、その俤の割合に保存されてるのは、今私の住居してゐる山王山附近である、もとよりこれぞといふ目ぼしい樹木もなく、武蔵野や相模原に、多く見るやうな雑木林で、やはり楢が一番多く、栗も樫もたまには交つてゐる。
 この頃のやうな若葉時になると、薄く透明な黄味を含んだ楢の葉が、柔々しい絹糸のやうな裏毛を、白く光らせて、あつちでも、こつちでも、ひら/\と波頭のやうに、そよ風に爪立つてゐる。傍に近寄つて見ると、土の匂ひのしさうな、黒ツぽくて浅い裂け目のある、無格好の幹から、滑べツこい灰白の小枝が、何本も出て、その小枝からは、鮮やかな薄緑の葉が、掌を返すやうに、取ツ組み合つて密集してゐる、同じ楢の中でも、私は殊にコナラの葉を美しいと思ふ、先の尖つた篦形の葉の縁辺を、鋸の目立のやうな歯と歯が内向きに喰い込んで、幾枚となく小さい掌を重ねたやうな若葉が、上になつたり下になつたりしてゐる戯れを、もどかしさうに見下して、黒松が大手をひろげて、虚空をぴたりと抑へつけてゐる、黒ツぽい程、濃緑の松の葉の傘は、大概楢よりも高く挺き上つて、光線を容易に透しさうもなく、大空にひろがつてゐる、森の中をさまよひながら、楢の葉の大波を掻き分けて行くと、方々にこの黒松の集団が、印度藍の岩壁のやうに突つ立つてゐる、それが疎らの林を、怖ろしく厚ぼつたくも見せるし、又遠くからは、青空に黒く塊まつた怪鳥のやうにも見える。
 春の宵は、森の中が寝静まつたやうにひつそりとして、青葉若葉の面が、霞がかゝつたやうに曇つて来る、冷たい、水のやうな、浅黄色の空は、下弦の月が黄金色に光つたときは、柔かい吐息が、あの銀色をした温味のある白毛の衾から、すやすやと聞えやうかと耳を澄ます、五月雨には、森の青地を白く綾取つて、雨が鞦韆のやうに揺れる、椽側に寝そべりながら、団扇で蚊をはたき、はたきする、夏の夜など、遠い/\冥途から、人を呼びに来るやうな、ボウ、ボウと夢でも見るやうな声が、こんもりした杉の梢から、あたりの空気に沁み透つて、うつゝともなく、幻ともなく、神経にひゞく、「梟が啼き出したよ」と、宅の者はいふ、ほんとうに梟であるか、どうか、私は知らないが、世にも頼りのなさゝうな、陰惨たる肉声が、黒くなつた森から濃厚な水蒸気に伝はつて、にじみ出ると、生活から游離された霊魂が、浮ばれずにさまよつてゐるのではなからうかと思はれて、私は大地の底へでも、引き擦り入れられるやうに、たゞもう、味気なく、遣る瀬のない思ひになつてくる。
 それよりも秋の夜は、箱根大山辺からの、乾ツ風が吹き荒んで、森の中の梢といふ梢は、作り声をしたやうに、ざわ/\と騒ぎ立ち、落葉が羽ばたきをしながら、舞ひ立つて、夜もすがら戸を敲き、屋根を這ひずり廻る、風の無い夜は、朝起き…

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