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![]() はたもとたいくつおとこ |
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作品ID | 1476 |
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副題 | 09 第九話 江戸に帰った退屈男 09 だいきゅうわ えどにかえったたいくつおとこ |
著者 | 佐々木 味津三 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「旗本退屈男」 春陽文庫、春陽堂書店 1982(昭和57)年7月20日新装第1刷 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 大野晋 |
公開 / 更新 | 2001-12-18 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 41 ページ(500字/頁で計算) |
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一
――その第九話です。
とうとう江戸へ帰りました。絲の切れた凧のような男のことであるから、一旦退屈の虫が萌して来たら最後、気のむくまま足のむくまま、風のまにまに、途方もないところへ飛んで行くだろうと思われたのに、さても強きは美しきものの愛、肉親の情です。予期せぬ事からはしなくも呼び寄せて、はしなくも半年ぶりに出会った愛妹菊路と、そうして菊路が折々見せつけるともなく見せつけた愛人京弥との、いかにも睦じすぎる可憐な恋に、いささか退屈男も当てつけられて、ついふらふらと里心がついたものか、知らぬうちにとうとうふわふわと江戸へ帰り着きました。
江戸は華の元禄、繁昌の真っ盛り。
だが風が冷たい。――吹き出せば止むことを知らぬ江戸名物冬の木枯なのです。
木枯が江戸の名物とすれば、それにも劣らぬ江戸名物の退屈男が久方ぶりに帰って来たのであるから、眉間の三日月傷でその顔を見知り越しの駕籠人足共が、わが駕籠に乗せているのを自慢顔に、しきりと景気よく怒鳴りながら走ったからとて不思議のないことでした。
「ほらよう。退いた! 退いた! 傷の御殿様がお帰りじゃ」
「早乙女の御前様が御帰りじゃ。ほらよう。退いた! 退いた!」
走る。走る。――実に途方もなく大きな声で自慢しながら、威張って走るのです。だから、一緒に駕籠をつらねて走っている妹の菊路が、誂えてもなかなかこんなに上等なのはたやすく出来そうにもないわが兄と共々、めでたく江戸へ帰ることの出来たのが限りなくも悦ばしかったと見えて、しきりにはしゃぎながら言ったとても、さらに不思議のないことでした。
「な! 京弥さま、京弥さま。うれしゅうござりまするな。ほんとうにうれしゅうござりまするな」
なぞと先ずうしろの駕籠の京弥によろしく先へ言っておいて、前の駕籠の兄へあとから呼びかけました。
「な! 御兄様! ほら、ごろうじませ! ごろうじませ! 灯が見えまする。江戸の灯が見え出しました。さぞかしおなつかしゅうござりましょう?」
「………」
「な! お兄様!」
「………」
「江戸の灯でござります。久方ぶりでござりますもの、さぞかしおなつかしゅうござりましょう」
「………」
「お! お兄様!」
「………」
「お兄様と申しますのに! な! ――お兄様!」
ところが当の御兄様は、生きているのか死んでいるのか、音なき風の如く更に声がないのです。
「もし! ……駕籠屋さん! 駕籠屋さん! 御兄様がどうかしたかも知れませぬ。ちょッと乗り物をお止め下さりませ」
「え?」
「呼んでも呼んでもお兄様の御返事がござりませぬ。どうぞなされたかも知れませぬゆえ、早う止めて、ちょっと御容子を見て下さりませ」
「殿様え! もし傷の御殿様え!」
少しうろたえて、ひょいと中をのぞくと、まことに、かくのごとく胆が坐っていたのでは敵うものがない。うつらうつらと…