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魚の憂鬱
さかなのゆううつ
作品ID1527
著者薄田 泣菫
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆32 魚」 作品社
1985(昭和60)年6月25日
入力者とみ~ばあ
校正者今井忠夫
公開 / 更新2000-12-25 / 2014-09-17
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より




 池のほとりに来た。蒼黒い水のおもてに、油のやうな春の光がきらきらと浮いてゐる。ふと見ると、水底の藻の塊を押し分けて、大きな鯉がのつそりと出て来た。そして気が進まなささうにそこらを見まはしてゐるらしかつたが、やがてまたのつそりと藻のなかに隠れてしまつた。
 私はそれを見て、以前引きつけられた支那画の不思議な魚を思ひ出した。

 私は少年の頃、よく魚釣に出かけて往つた。ある時、鮒を獲らうとして、小舟に乗つて、村はづれの池に浮んだことがあつた。
 その日はどうしたわけか、釣れが悪かつた。私はやけになつて、すぐそこを游いでゐる三寸ばかりの魚を目がけて鈎を下した。そして無理やりに餌を魚の鼻さきにこすりつけようとして、ふと物に驚いて、じつと水の深みを見おろした。
 今まで雲のかなたに陰つてゐた春の陽は、急にぱつと明るくそこらに落ちかかつて来た。ささ濁りに濁つた水の中に、青い藻が長く浮いてゐて、その蔭から大きな鯉が、真黒な半身をのつそりと覗かせてゐるではないか。鋼鉄の兜でも被つたやうなそのしかめつ面。人を恐れないその眼の光。私は見てゐるうちに、何だか不気味になつた。
「池のぬしかも知れない。」
 さう思うと、水草の蔭に、幾年と棲みながらへて、岸を外へ、広い天地に躍り出すこともできないで、絶えず身悶えして池を泳ぎまはり絶えず限られた池を呪つて来た老魚の生活の倦怠と憂鬱とが、私の小さな心を脅かすやうに感じられて来たので、私は魚を獲ることなどはすつかり思ひとまつて、そこそこに舟を岸に漕ぎ戻したことがあつた。
 河魚といへば、いづれも新鮮な生命にぴちぴちしてゐて、その姿をしなやかな、美しいものとのみ思つて、友達のやうな親しみをもつて遊び馴れて来た私に、この古池の鯉は、彼等の持つ冷たい不気味さと憂鬱との半面を見せてくれるに十分であつた。

 私はその後、どうしたわけか、魚の画が好きになつて、出来る限りいろんな画家のものを貪り見たことがあつた。画院の待詔で、遊魚の図の名手として聞え、世間から范獺子と呼ばれた范安仁をはじめ、応挙、盧雪、崋山などの名高い作物をも見たが、その多くは愉快な魚の動作姿態と、凝滞のない水の生活の自由さとを描いたもので、あの古池の鯉が見せてくれたやうな、淡水に棲む老魚の持つ倦怠と、憂鬱と、暗い不気味さとは、どの作品でも味はふことができなかつたのを、幾らか物足らず思つたものだ。たつた一度、呉霊壁のあまりすぐれた出来とも思はれない作品に、あり来りのそれとはちがつて、鯉を水の化生か何かのやうに醜く描いてゐるのを見て、おもしろいと思つたことがあつた。作者はどんな人かよく知らないが、多くの画家が生命の溌刺さをのみ見てゐるこの魚族を取り扱ふのに、彼みづからの見方に従つて、グロテスクの味をたつぷりと出したのが気に入つて、いまだに忘れられないでゐる。



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