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ある眼
あるめ
作品ID1559
著者竹久 夢二
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆40 顔」 作品社
1986(昭和61)年2月25日
入力者渡邉つよし
校正者門田裕志
公開 / 更新2002-12-14 / 2014-09-17
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「あんな娘をどこが好いんだ、と訊かれると、さあ、ちよつと一口に言へないが」さう云つて、画家のAは話し出した。
 彼女はただ普通のモデル娘として、私の画室に通つてきてゐたのです。私も特別、彼女に注意を払つてもゐませんでした。それほど、彼女は、ただの娘でした。年は十七八だつたでせうか、身体が大きいからと言つて、そのころ肩揚をおろしてゐました。
 彼女は、見たところそんな風で、人物にも性情にも特長のない娘でしたが、人から何か話しかけられたり、訊かれると返事のかはりに「まあ」と言つて、少し笑つた眼で相手を見返す癖がありました。
 その眼は、たいしてコケテイツシユなものではなかつたが、やはり年頃の娘ですから、黒く濡れてゐて、その眼が一種間のぬけた好もしい感じを与へました。
 そしてこの「まあ」といふ返事が、イエスでもノーでもないやうな、それでゐて、相手の言ふことをすつかり呑込んで、上手に受流したやうにも見えるのでした。だからある時などは、とても聡明な才女にさへ見えるのでした。さうかと思ふと、とてもとんちんかんな「まあ」であることもありました。
 私の製作は二週間の予定でした。なんでも最初の一週間が過ぎた日曜だつたと思ひます。私は、絵の具の買ひ足しにいつて、外から帰つてくると、そのモデルはこちらへ横顔を見せて、出窓のところへぢつと坐つてゐるんです。
 よく電車の中などで、人に見られてゐることを少しも意識してゐないやうに見える女性の、自由な開放せられた美しさや、また反対に、女性が持つてゐる肉体的な無意識の嫌悪や謙譲や羞恥が反つて、肉感的な吸引力になつてゐることを、屡々見かけます。
 また人が誰にも見られないで、たつた一人で何かしてゐるのを覗き見ることに悪魔的な喜びを感じることがあります。ことにそれが女性である場合、眠つてゐない限り、何等かの不思議な美しさを見せてくれるものです。丁度そんな機会だつたのです。
 私は庭の方から窓の下へ歩みよつて、ガラス戸の外からモデル娘を覗いて見ました。娘は一生懸命に前髪の毛を指で引張つてゐるのです。それをどうするつもりなのか見てゐると、その髪の毛を鼻の上まで持つてきてそれを眼で見てゐるんです。自然両方の眸がまん中へ寄つて、仁木弾正が忍びの術を使つてゐる時の、その眼をしてゐるんです。
 私はあぶなく笑ひ出しさうになつたが、すぐに、何か不思議なものに打たれて、真剣な心持ちになつてきました。
 それはその眼のためではありません。自然のポーズでもありません。私は黙つて見てゐられなくなつて、窓の外から「お光ちやん」と呼びかけました。その娘は、お光といふ名でした。
 お光は、びつくりして振り返つて、親愛の心持をみんなその眼に集めたやうな眼ざしで私の方を見ながら立上りました。そして例の「まあ」を言つたものです。
 あの、ちらと影をさして、すぐ消えていつた…

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