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久米の仙人
くめのせんにん |
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作品ID | 16037 |
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著者 | 薄田 泣菫 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「現代日本紀行文学全集 西日本編」 ほるぷ出版 1976(昭和51)年8月1日 |
初出 | 「三田文学」1911(明治44)年3月 |
入力者 | 林幸雄 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2003-04-01 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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私がじめじめした雜木の下路を通りながら、久米寺の境内へ入つて來たのは、午後の四時頃であつた。
善無畏が留錫中初めて建てたといふ、恰好のいい多寶塔をちらと振仰ぎながら、私は仙人堂へ急いだ。久米仙人の木像を見ようといふのだ。仙人は埃だらけの堂のなかで、相變らず婦人でも抱かうとするやうな、妙な手つきをして龕のなかに納まつてゐた。
私は久米の仙人が好きだ。好きだといつて、何も交際ぶりが氣に入つたとか、酒の上の話が合つたとかいふのではない。不思議な仙術を得て、あちらこちらと空を駈けずりまはる途すがら、そこいらの河の縁で洗濯女の白い脛を見て、急に地面に落ちたといふ、あの言傳へが氣に入つたのだ。
世の中の人は――わけて兩性の關係を口喧しく言ひながら、家庭では十人の子供を産まうといふ道徳家などは、まるで自分が生殖不能者ででもあるやうに、なんぞといつてはこの話を引張り出して、笑ひ事の一つにしようとするらしいが、私はそんな輕い解釋で、これを見過してしまふ事は出來ない。もしか私が仙人のやうな羽目になつたとして、ああした白い女の足を見たのでは、どうしても落ちて來さうに思はれる。いや落ちて來さうなのではない、落ちて來た方がよいのだ。實際仙人が落ちて來たのは、何もあの人の道心が淺かつたとか、また今時の教育家のいふ性教育とやらを受けなかつたとかいふ譯ではない。――全く見逃す事の出來ない偉い心の變化なのだ。
久米の仙人は空を飛ぶものの用意として、雀のやうに質朴な考へを持たなければならない事も知つてゐた。鶲のやうに獨りぼつちで居なければならない事も知つてゐた。鷦鷯のやうに鹽斷ちをしなければならない事を知つてゐた。それからまた雲雀のやうに唯もう高いところに心を繋がなければならない事も知つてゐた。――かういふ事は何もかもそつくり知つてゐたには相違ないが、(といふのになんの不思議があらう、知つてゐたからこそ空も飛べたのだ。)その知つてゐたのは、空でも飛ばうといふものは、さうしなければならないといふ、これまでの言傳へをそのまま信じてゐたに過ぎなかつた。
で、仙人は空を飛んだ。砂漠のやうな乾いた空をあちこちと飛び歩いて、かうして高く揚る事の出來た心掛を、獨りで得意がつてゐると、ちやうどその足もとの久米の里では、小河の河つ縁で濯ぎ物をしてゐる女がある。女の著物の裾をやけにたくしあげてゐるので、ふつくりと肥えた脛がよく見える。
それが眼にとまると、これまで押へに押へた仙人の感覺は、蠍のやうに眠りから覺めて、持前の鋭い刺激を囘復した。そして新しい彈力で一杯になつたその肉體は、干葡萄のやうに萎びきつた靈の高慢くさいのを嘲笑つた。
靈は默つてその侮辱をうける他はなかつた…………と思ふと、久米の仙人は[#挿絵]を打たれた鳥のやうに、もんどりうつて小河の河つ縁に落ちて來た。その刹那に新しい價値の世界…