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陳宝祠
ちんほうし
作品ID1643
著者田中 貢太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「中国の怪談(二)」 河出文庫、河出書房新社
1987(昭和62)年8月4日
入力者Hiroshi_O
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2003-08-18 / 2014-09-17
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 杜陽と僕の二人は山道にかかっていた。足がかりのない山腹の巌から巌へ木をわたしてしつらえた桟道には、ところどころ深い壑底の覗かれる穴が開いていて魂をひやひやさした。その壑底には巨木が森々と茂っていて、それが吹きあげる風に枝葉をゆうらりゆらりと動かすのが幽に見えた。
 壑の前方の峰の凹みに陽が落ちかけていた。情熱のなくなったような冷たいその光が微赤く此方の峰の一角を染めて、どこかで老鶯の声が聞えていた。杜陽は日が暮れないうちに、宿駅のある処へ往こうと思って気があせっていた。
 その数年間、年に一二度は往復している途であるが、一歩を過れば生死のはかられない道であるから思うようには急げなかった。彼は蒲東から興安へ出て布店をやっている舅の許にいて、秦晋の間を行商している者で、その時は興安へ帰るところであった。
 その日は褒斜を朝早く出発していた。その危険な道の中でもわけて危険な処があると、二十歳になったばかりの若い主人は僕に注意した。
「おい、あぶないよ、此方を歩かないといけないよ」
 小柄な色の白いまだどこか小供小供したところのある男は細かい神経を持っていた。
「おい、そんな処を歩いてはいけない、あぶないじゃないか」
 道は山の出っ鼻を廻って往った。樹と巌が入り乱れた処があって、夕陽の光が山風の中に物凄い色を見せていた。僕がさきになってその方へ往った。左側には深い壑があった。
 道は爪前さがりになっていた。杜陽は滑らないように脚下に注意していた。と、不意に僕の叫ぶ叫び声がした。それはなんとも形容のできないおそろしい声であった。杜陽はびっくりして前の方を見た。牛ほどもあるおおきな獣が後ろにのけぞった僕の胸のあたりに口をやっているところであった。杜陽は後ろへ逃げようとした。そのはずみに足を踏みはずして、そのまま壑の中へ墜ちて行った。

 杜陽は意識が回復してきた。彼は眼を開けた。大きな樹の幹が微暗い中に見えていた。彼は自分は壑の中へ墜ちたが運好く死なずにいるな、と思いだした。そう思うと彼の心に喜びが湧いてきた。余裕のできたその心には、虎に噛まれようとしていた僕のむごたらしい姿も映ってきた。
 杜陽は体を起そうとした。体の下には朽葉が木綿の厚い蒲団を敷いたように柔かく積み重なっていて、突いた手に力が入らなかった。彼は注意して起きながら、この朽葉の上へ墜ちたから怪我もしなかったのだと思った。
 杜陽は四辺に眼をやった。大木がいちめんに生えて下の方は微暗かったが、梢の方の枝と枝との間には明るい空があって、そそり立った山の尖りが見えていた。枝には風があった。杜陽はどうして道のある処へ出たものだろうと思って注意した。其処は険しい切り断った瓶の底のような壑の底で、翅のないかぎりあがって往くというようなことは想像にも及ばなかった。彼が折角無事であったことを喜んだのも束の間の喜びであ…

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