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野狐
やこ
作品ID1663
著者田中 英光
文字遣い新字新仮名
底本 「昭和文学全集 第32巻」 小学館
1989(平成元)年8月1日
初出「知識人」1949(昭和24)年5月
入力者kompass
校正者林幸雄
公開 / 更新2001-02-22 / 2014-09-17
長さの目安約 40 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ひとのいう、(たいへんな女)と同棲して、一年あまり、その間に、何度、逃げようと思ったかしれない。また事実、伊豆のM海岸に疎開のままになっている妻子のもとに、度々戻ったこともある。
 しかし、それはいつも完全に逃げられなかった。(たいへんな女)が恋しく、女房の鈍感さに堪えられなかったのである。たいへんな女、桂子の過去を私はよく知らない。私は桂子と街で逢った。けれども普通の夜の天使と違った純情さと一徹さがあると信ぜられた。
 私との商取引ができた後、私は四、五人の逞しい、異国人たちに取囲まれ、喧嘩になった時、彼女は最後まで私の味方だった。また一緒にホテルにいった後、彼女は包まず、自分の恥ずかしい過去を語り、流涕し、しかも歓喜して私の身体を抱いた。私は生れて初めて、肉欲の喜びを知ったと思った。彼女がいっさい、包まず、自分の過去を語ったと思ったのは私の錯覚である。しかし少しでも、自分の醜悪な過去を私にみせてくれたのは、私にとって救いであった。
 いわば憐憫の情から結婚してしまった私の妻は処女でなかった。しかも、それは自転車に乗ったためだと嘘を吐き、自分の過去を神聖そのもののようにみせようと、いつまでも私に対して冷たかった。私も童貞で、妻と一緒になった訳ではない。けれども私は自分の過去を包みかくさず、彼女に語った。そして、彼女にもそのようにして貰いたかった。だが、妻は、(汚された処女の復讐)を私に対して、行なったのである。私はそれに対して、放蕩をもって対抗していた。
 その頃から、第二次世界大戦が激しくなってゆき、私は度々、出征した。殺人と放火の無慈悲な戦場にいると、そんな甲羅をかぶったような妻でも、天使のように恋しく、私は帰還する度に、妻に子供を産ませた。
 戦争が済むと、私は会社を馘になり、子供は四人もあった。インフレはたちまち激しくなり、六千円ほどの退職金は三日ももたなかった。私は昔から文学志望だったけれど、その時は、資本主義社会の邪悪さを身にしみて感じていただけに、新しい正しい世の中を作りたい希望をもって共産党に入っていった。
 けれども一年ばかりで、私は現在の共産党に幻滅を感じた。それはボス中心の私利私欲を追求する連中だけに利用されているように思われたからである。それでも私は内部に踏みとどまって、戦うのが正しかったのだろう。だが私は一時の感情にかられて、党に脱党届を叩きつけた。そして党を憎むよりも自分を憎んだ。自分が裏切者、不義士の張本のように思われ、醜悪にみえて仕方なかったのである。
 そして家に帰って、文学三昧に戻ってみたが、すでに終戦後の作家飢饉で、多くの流行作家が世に出た後では、私は、いわゆる、バスにのりおくれた形で、持込みの原稿もなかなか売れなかった。その私の悪戦苦闘に対しても、妻は一向、同情しなかった。ヤケになった私は将来、私に余裕ができたら、…

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