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足迹
あしあと
作品ID1701
著者徳田 秋声
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の文学 9 徳田秋声(一)」 中央公論社
1967(昭和42)年9月5日
初出「読売新聞」1910(明治43)年7月30日〜11月18日
入力者田古嶋香利
校正者久保あきら
公開 / 更新2003-03-18 / 2017-07-30
長さの目安約 244 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

 お庄の一家が東京へ移住したとき、お庄はやっと十一か二であった。
 まさかの時の用意に、山畑は少しばかり残して、後は家屋敷も田もすっかり売り払った。煤けた塗り箪笥や長火鉢や膳椀のようなものまで金に替えて、それをそっくり父親が縫立ての胴巻きにしまい込んだ。
「どうせこんな田舎柄は東京にゃ流行らないで、こんらも古着屋へ売っちまおう。東京でうまく取り着きさえすれア衆にいいものを買って着せるで心配はない。」
 とかく愚痴っぽい母親が、奥の納戸でゴツゴツした手織縞の着物を引っ張ったり畳んだりしていると、前後の考えのない父親がこう言って主張した。これまでにもさんざん道楽をし尽して、どうかこうか五人の子供を育てあげるにさしつかえぬくらいの身代を飲み潰してしまった父親は、妻子を引き連れてどこか面白いところを見物に行くような心持でいた。
 それまでに夫婦は長いあいだ、身上をしまうしまわぬで幾度となく捫着した。母親はそのたびにいろいろの場合のことを言い出して、一つ一つなくなった物を数えたてた。
「あんらも今あれアたとい東京へ行くにしたってはずかしい思いはしないに」と、ろくに手を通さない紋附や小紋のようなものを、縫い直しにやると言って、一ト背負い町へ持ち出して行かれたことなどを、くどくどと零した。自分で苦労して、養蚕で取った金を夕方裏の川へ出ているちょっとの間に、ちょろりと占めて出て行ったきり、色町へ入り浸って、七日も十日も帰らなかったことなども、今さらのように言い立てられた。すると父親は煙管を筒にしまって腰へさすと、ぷいと炉端を立って向うの本家へ外してしまう。
 お庄は母親が、売るものと持って行くものとを、丹念に選り分けて、しまったり出したりしている傍に座り込んで、これまでに見たこともない小片や袋物、古い押し絵、珊瑚球のような物を、不思議そうに選り出しては弄っていた。中には顎下腺炎とかで死んだ祖母さんの手の迹だという黴くさい巾着などもあった。お庄は自分の産れぬ前のことや、稚いおりのことを考えて、暗い懐かしいような心持がしていた。
 家がすっかり片着いて、起つ二日ばかり前に一同本家へ引き揚げた時分には、思い断りのわるい母親の心もいくらか紛らされていた。明るい方へ出て行くような気もしていた。
 父親は本家の若い主と朝から晩まで酒ばかり飲んでいた。村で目ぼしい家は、どこかで縁が繋がっていたので、それらの人々も、餞別を持って来ては、入れ替り立ち替り酒に浸っていた。山国の五月はやっと桜が咲く時分で裏山の松や落葉松の間に、微白いその花が見え、桑畑はまだ灰色に、田は雪が消えたままに柔かく黝んでいた。
 道中はかなりに手間どった。汽車のあるところまで出るには、五日もかかった。馬車の通っているところは馬車に乗り、人力車のあるところは人力車に乗ったが、子供を負ったり、手を引っ張った…

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