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ただれ
作品ID1703
著者徳田 秋声
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の文学 9 徳田秋声(一)」 中央公論社
1967(昭和42)年9月5日
入力者田古嶋香利
校正者久保あきら
公開 / 更新2003-06-14 / 2014-09-17
長さの目安約 153 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

 最初におかれた下谷の家から、お増が麹町の方へ移って来たのはその年の秋のころであった。
 自由な体になってから、初めて落ち着いた下谷の家では、お増は春の末から暑い夏の三月を過した。
 そこは賑やかな広小路の通りから、少し裏へ入ったある路次のなかの小さい平家で、ついその向う前には男の知合いの家があった。
 出て来たばかりのお増は、そんなに着るものも持っていなかった。遊里の風がしみていたから、口の利き方や、起居などにも落着きがなかった。広い大きな建物のなかから、初めてそこへ移って来たお増の目には、風鈴や何かと一緒に、上から隣の老爺の禿頭のよく見える黒板塀で仕切られた、じめじめした狭い庭、水口を開けると、すぐ向うの家の茶の間の話し声が、手に取るように聞える台所などが、鼻がつかえるようで、窮屈でならなかった。
 その当座昼間など、その家の茶の間の火鉢の前に坐っていると、お増は寂しくてしようがなかった。がさがさした縁の板敷きに雑巾がけをしたり、火鉢を磨いたりして、湯にでも入って来ると、後はもう何にもすることがなかった。長いあいだ居なじんだ陽気な家の状が、目に浮んで来た。男は折り鞄などを提げて、昼間でも会社の帰りなどに、ちょいちょいやって来た。日が暮れてから、家から出て来ることもあった。男は女房持ちであった。
 お増は髪を丸髷などに結って、台所で酒の支度をした。二人で広小路で買って来た餉台のうえには、男の好きな[#挿絵]や、鯛煎餅の炙ったのなどがならべられた。近所から取った、鰻の丼を二人で食べたりなどした。
 いつも肩のあたりの色の褪めた背広などを着込んで、通って来たころから見ると、男はよほど金廻りがよくなっていた。米琉の絣の対の袷に模様のある角帯などをしめ、金縁眼鏡をかけている男のきりりとした様子には、そのころの書生らしい面影もなかった。
 酒の切揚げなどの速い男は、来てもでれでれしているようなことはめったになかった。会社の仕事や、金儲けのことが、始終頭にあった。そして床を離れると、じきに時計を見ながらそこを出た。閉めきった入口の板戸が急いで開けられた。
 男が帰ってしまうと、お増の心はまた旧の寂しさに反った。女房持ちの男のところへ来たことが、悔いられた。
「お神さんがないなんて、私を瞞しておいて、あなたもひどいじゃないの。」
 来てから間もなく、向うの家のお婆さんからそのことを洩れ聞いたときに、お増はムキになって男を責めた。
「誰がそんなことを言った。」
 男は媚びのある優しい目を[#挿絵]ったが、驚きもしなかった。
「嘘だよ。」
「みんな聞いてしまいましたよ。前に京都から女が訪ねて来たことも、どこかの後家さんと懇意であったことも、ちゃんと知ってますよ。」
「へへ。」と、男は笑った。
「その京都の女からは、今でも時々何か贈って来るというじゃありません…

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