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草とり
くさとり |
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作品ID | 1707 |
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著者 | 徳冨 蘆花 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆94 草」 作品社 1990(平成2)年8月25日 |
入力者 | 増元弘信 |
校正者 | 菅野朋子 |
公開 / 更新 | 2000-11-13 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 4 ページ(500字/頁で計算) |
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一
六、七、八、九の月は、農家は草と合戦である。自然主義の天は一切のものを生じ、一切の強いものを育てる。うつちやつて置けば、比較的脆弱な五穀蔬菜は、野草に杜がれてしまふ。二宮尊徳の所謂「天道すべての物を生ず、裁制補導は人間の道」で、こゝに人間と草の戦闘が開かるるのである。
老人、子供、大抵の病人はもとより、手のあるものは火斗でも使ひたい程、畑の草田の草は猛烈に攻め寄する。飯焚く時間を惜んで餅を食ひ、茶もおち/\は飲むで居られぬ程、自然は休戦の息つく間も与えて呉れぬ。
「草に攻められます」とよく農家の人達は云ふ。人間が草を退治せねばならぬ程、草が人間を攻めるのである。
唯二反そこらの畑を有つ美的百姓でも、夏秋は烈しく草に攻められる。起きぬけに顔も洗はず露蹴散らして草をとる。日の傾いた夕陰にとる。取りきれないで、日中にもとる。やつと奇麗になつたかと思ふと、最早一方では生えて居る。草と虫さへ無かつたら、田園の夏は本当に好いのだが、と愚痴をこぼさぬことは無い。全体草なンか余計なものが何になるのか。何故人間が除草器械にならねばならぬか。除草は愚だ、うつちやつて草と作物の競争さして、全滅とも行くまいから残つただけを此方に貰へば済む。といふても、実際眼前に草の跋扈を見れば、除らずには居られぬ。隣の畑が奇麗なのを見れば、此方の畑を草にして草の種を隣に飛ばしても済まぬ。近所の迷惑も思はねばならぬ。
そこでまた勇気を振起して草をとる。一本また一本。一本除れば一本減るのだ。草の種は限なくとも、とつただけは草が減るのだ。手には畑の草をとりつゝ、心に心田の草をとる。心が畑か、畑が心か、兎角に草が生え易い。油断をすれば畑は草だらけである。吾儕の心も草だらけである。四囲の社会も草だらけである。吾儕は世界の草の種を除り尽すことは出来ぬ。除り尽すことは、また我儕人間の幸福でないかも知れぬ。然しうつちやつて置けば、我儕は草に埋もれて了ふ。そこで草を除る。己が為に草を除るのだ。生命の為に草をとるのだ。敵国外患なければ国常に亡ぶで、草がなければ農家は堕落して了ふ。
「爾我言に背いて禁菓を食ひたれば、土は爾の為に咀はる。土は爾の為に荊棘と薊を生ずべし。爾は額に汗して苦しみて爾のパンを食はん」
斯く旧約聖書は草を人間の罰と見た。実は此の罰は人の子に対する深い親心の祝福である。
二
美的百姓の彼は兎角見るに美しくする為に草をとる。除るとなれば気にして一本残さずとる。農家は更に賢いのである。草を絶やすと地力を尽すと云ふ。草をとつて生のまゝ土に埋め、或は烈日に乾燥させ、焼いて灰にし、積んで腐らし、いづれにしても土の肥料にしてしまふ。馴付けた敵は、味方である。「年々や桜を肥す花の塵」美しい花が落ちて親木の肥料になるのみならず、邪魔の醜草がまた死んで土の肥料になる。清水却て…