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大菩薩峠
だいぼさつとうげ |
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作品ID | 1728 |
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副題 | 15 慢心和尚の巻 15 まんしんおしょうのまき |
著者 | 中里 介山 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「大菩薩峠4」 ちくま文庫、筑摩書房 1996(平成8)年1月24日 「大菩薩峠5」 ちくま文庫、筑摩書房 1996(平成8)年2月22日 |
入力者 | tatsuki、(株)モモ |
校正者 | 原田頌子 |
公開 / 更新 | 2002-10-17 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 171 ページ(500字/頁で計算) |
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一
お銀様は今、竜之助のために甲陽軍鑑の一冊を読みはじめました。
「某は高坂弾正と申して、信玄公被管の内にて一の臆病者也、仔細は下々にて童子どものざれごとに、保科弾正鑓弾正、高坂弾正逃弾正と申しならはすげに候、我等が元来を申すに、父は春日大隅とて……」
それは巻の二の品の第五を、はじめから、お銀様はスラスラと読みました。
竜之助がおとなしく聞いているために、品の第六を読み了って第七にかかろうとする時分に、
「有難う、もうよろしい」
「夜分には、また源氏物語を読んでお聞かせしましょう」
二人ともに満足して、その読書を終りました。お銀様は書物に疲れた眼を何心なく裏庭の方へ向けると、小泉家の後ろには竹藪があって、その蔭にまだお銀様の好きな椿の花が咲いておりました。お銀様はそれを見るとわざわざ庭へ下りて、その一輪を摘み取って来ました。重々しい赤い花に二つの葉が開いています。
「お目が見えると、この花を御覧に入れるのだけれど」
柱に凭れていた竜之助の前へ、お銀様はその花を持って来ました。
「何の花」
「椿の花」
お銀様はその花を指先に挿んで、子供が弥次郎兵衛を弄ぶようにしていました。
「たあいもない」
竜之助はその花を手に取ろうともしません。お銀様は、ただ一人でその花をいじくりながら無心にながめていました。
さてお銀様は、机の上をながめたけれども、そこに、有野村の家の居間にあるような、一輪差しの花活も何もありません。
「お銀」
竜之助はお銀様の名を呼びました。それは己が妻の名を呼ぶような呼び方であります。
「はい」
お銀様はこう呼ばれてこう答えることを喜んでいました。自分から願うてそのように呼ばれて、このように答えることを望んでいるらしい。
けれども竜之助は呼び放しで、あとを何の用とも言いませんでした。ただ名を呼んでみて、呼んでしまっては、もうそのことを忘れてしまっているようでしたが、実はそうではありません。
「あなた」
お銀様は椿の花を面に当てて、その二つの葉の間から竜之助の面をながめました。
「この花をどうしましょう、わたしの一番好きな椿の花」
お銀様はクルクルと、椿の花を指先で操りました。
竜之助は返事をしません。けれどもお銀様はそれで満足しました。
「生けておきたいけれども、何もございませんもの」
お銀様は、わざとらしくその花を持ち扱って、机の上や室の隅などを見廻しました。この一間に仏壇があることは、お銀様も前から知っていました。けれども、この花は仏に捧げようと思って摘んで来た花ではありません。ところが、持余し気味になってみると、そこがこの花の自然の納まり場所であるらしい。
お銀様はその一花二葉の椿を持って、仏壇の扉をあけた時に、まだそんなに古くはない白木の位牌がたった一つだけ、薄暗いところに安置されてあるのを見ました。位牌が…