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![]() がいかつてきとうそうじだいかん |
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作品ID | 1736 |
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著者 | 内藤 湖南 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「内藤湖南全集 第八巻」 筑摩書房 1969(昭和44)年8月20日 |
初出 | 「歴史と地理」1922(大正11)年5月発行、第九巻第五号 |
入力者 | はまなかひとし |
校正者 | 菅野朋子 |
公開 / 更新 | 2001-01-27 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 16 ページ(500字/頁で計算) |
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唐宋時代といふことは普通に用ふる語なるが、歴史特に文化史的に考察すると、實は意味をなさぬ語である。それは唐代は中世の終末に屬し、而して宋代は近世の發端となりて、其間に唐末より五代に至る過渡期を含むを以て、唐と宋とは文化の性質上著しく異りたる點がある。但し從來の歴史家は多く朝代によりて時代を區劃したから、唐宋とか元明清とか一の成語になつて居るが、學術的にはかゝる區劃法を改むる必要がある。但し今は便宜上、普通の歴史區劃に從ひ唐宋時代の名を用ひて、支那の中世より近世に移る間の變化の状態を總括して説いて見ようと思ふ。
中世と近世との文化の状態は、如何なる點に於て異るかといふに、政治上よりいへば貴族政治が廢頽して君主獨裁政治が起りたる事で、貴族政治は六朝から唐の中世までを最も盛なる時代とした。勿論此貴族政治は、上古の氏族政治とは全く別物で、周代の封建制度とも關係がなく、一種特別のものである。此時代の支那の貴族は、制度として天子から領土人民を與へられたといふのではなく、其家柄が自然に地方の名望家として永續したる關係から生じたるもので、所謂郡望なるものゝ本體がこれである。それ等の家柄は皆系譜を重んじ、其ために當時系譜學が盛んになつた位である。現に存在する諸書の中でも、唐書の宰相世系表は即ち其有樣を示したもの、又、李延壽の南北史の中には、朝代に拘らず各家の人を祖先から子孫まで續けて纏まれる傳を書いたから、人のために家傳を作つた體裁になつたといふ非難を受けたが、これは南北朝時代の實際状態が無意識の裡に歴史の上に現れたのである。
かくの如き名族は、當時の政治上の位置から殆ど超越して居る。即ち當時の政治は貴族全體の專有ともいふべきものであつて、貴族でなければ高い官職に就く事が出來なかつたが、しかし第一流の貴族は必ず天子宰相になるとも限らない。ことに天子の位置は尤も特別のものにて、これは實力あるものゝ手に歸したるが、天子になつても其家柄は第一流の貴族となるとは限らない。唐太宗が天子になれるとき、貴族の系譜を調べさせたが、第一流の家柄は北方では博陵の崔氏、范陽の盧氏などにて、太宗の家は隴西の李氏で三流に位するといふことなりしも、此家柄番附は、天子の威力でもこれを變更する事が出來なかつた。南朝に於ても王氏、謝氏などが天子の家柄よりも遙に重んぜられた。是等は皆同階級の貴族の間で結婚をなし、それ等の團體が社會の中心を形成して、最もよき官職は皆此仲間の占むる所となつた。
この貴族政治は唐末より五代までの過渡期に廢頽して、これに代れるものが君主獨裁政治である。貴族廢頽の結果、君主の位置と人民とが近接し來りて、高い官職につくのにも家柄としての特權がなくなり、全く天子の權力によりて任命せらるゝ事となつた。この制度は宋以後漸次發達して、明清時代は獨裁政治の完全なる形式をつくることゝなり、國家…