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李陵
りりょう
作品ID1737
著者中島 敦
文字遣い新字新仮名
底本 「李陵・山月記・弟子・名人伝」 角川文庫、角川書店
1968(昭和43)年9月10日改版
入力者佐野良二
校正者松永正敏
公開 / 更新2001-03-14 / 2014-09-17
長さの目安約 69 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 漢の武帝の天漢二年秋九月、騎都尉・李陵は歩卒五千を率い、辺塞遮虜[#挿絵]を発して北へ向かった。阿爾泰山脈の東南端が戈壁沙漠に没せんとする辺の磽[#挿絵]たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風は戎衣を吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。漠北・浚稽山の麓に至って軍はようやく止営した。すでに敵匈奴の勢力圏に深く進み入っているのである。秋とはいっても北地のこととて、苜蓿も枯れ、楡や[#挿絵]柳の葉ももはや落ちつくしている。木の葉どころか、木そのものさえ(宿営地の近傍を除いては)、容易に見つからないほどの、ただ砂と岩と磧と、水のない河床との荒涼たる風景であった。極目人煙を見ず、まれに訪れるものとては曠野に水を求める羚羊ぐらいのものである。突兀と秋空を劃る遠山の上を高く雁の列が南へ急ぐのを見ても、しかし、将卒一同誰一人として甘い懐郷の情などに唆られるものはない。それほどに、彼らの位置は危険極まるものだったのである。
 騎兵を主力とする匈奴に向かって、一隊の騎馬兵をも連れずに歩兵ばかり(馬に跨がる者は、陵とその幕僚数人にすぎなかった、)で奥地深く侵入することからして、無謀の極みというほかはない。その歩兵も僅か五千、絶えて後援はなく、しかもこの浚稽山は、最も近い漢塞の居延からでも優に一千五百里(支那里程)は離れている。統率者李陵への絶対的な信頼と心服とがなかったならとうてい続けられるような行軍ではなかった。
 毎年秋風が立ちはじめると決って漢の北辺には、胡馬に鞭うった剽悍な侵略者の大部隊が現われる。辺吏が殺され、人民が掠められ、家畜が奪略される。五原・朔方・雲中・上谷・雁門などが、その例年の被害地である。大将軍衛青・嫖騎将軍霍去病の武略によって一時漠南に王庭なしといわれた元狩以後元鼎へかけての数年を除いては、ここ三十年来欠かすことなくこうした北辺の災いがつづいていた。霍去病が死んでから十八年、衛青が歿してから七年。[#挿絵]野侯趙破奴は全軍を率いて虜に降り、光禄勲徐自為の朔北に築いた城障もたちまち破壊される。全軍の信頼を繋ぐに足る将帥としては、わずかに先年大宛を遠征して武名を挙げた弐師将軍李広利があるにすぎない。
 その年――天漢二年夏五月、――匈奴の侵略に先立って、弐師将軍が三万騎に将として酒泉を出た。しきりに西辺を窺う匈奴の右賢王を天山に撃とうというのである。武帝は李陵に命じてこの軍旅の輜重のことに当たらせようとした。未央宮の武台殿に召見された李陵は、しかし、極力その役を免ぜられんことを請うた。陵は、飛将軍と呼ばれた名将李広の孫。つとに祖父の風ありといわれた騎射の名手で、数年前から騎都尉として西辺の酒泉・張掖に在って射を教え兵を練っていたのである。年齢もようやく四十に近い血気盛りとあっては、輜重の役はあまりに情けなかったに違いない。臣が辺境に養…

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