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牛人
ぎゅうじん |
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作品ID | 1742 |
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著者 | 中島 敦 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山月記・李陵 他九篇」 岩波文庫、岩波書店 1994(平成6)年7月18日 |
初出 | 「政界往来」1942(昭和17)年7月 |
入力者 | 小林克彦 |
校正者 | 今井忠夫 |
公開 / 更新 | 2001-01-20 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 10 ページ(500字/頁で計算) |
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魯の叔孫豹がまだ若かった頃、乱を避けて一時斉に奔ったことがある。途に魯の北境庚宗の地で一美婦を見た。俄かに懇ろとなり、一夜を共に過して、さて翌朝別れて斉に入った。斉に落着き大夫国氏の娘を娶って二児を挙げるに及んで、かつての路傍一夜の契などはすっかり忘れ果ててしまった。
或夜、夢を見た。四辺の空気が重苦しく立罩め不吉な予感が静かな部屋の中を領している。突然、音も無く室の天井が下降し始める。極めて徐々に、しかし極めて確実に、それは少しずつ降りてくる。一刻ごとに部屋の空気が濃く淀み、呼吸が困難になってくる。逃げようともがくのだが、身体は寝床の上に仰向いたままどうしても動けない。見えるはずはないのに、天井の上を真黒な天が盤石の重さで押しつけているのが、はっきり判る。いよいよ天井が近づき、堪え難い重みが胸を圧した時、ふと横を見ると、一人の男が立っている。恐ろしく色の黒い傴僂で、眼が深く凹み、獣のように突出た口をしている。全体が、真黒な牛に良く似た感じである。牛! 余を助けよ、と思わず救を求めると、その黒い男が手を差伸べて、上からのし掛かる無限の重みを支えてくれる。それからもう一方の手で胸の上を軽く撫でてくれると、急に今までの圧迫感が失ってしまった。ああ、良かった、と思わず口に出したとき、目が醒めた。
翌朝、従者下僕らを集めて一々検べて見たが、夢の中の牛男に似た者は誰もいない。その後も斉の都に出入する人々について、それとなく気を付けて見るが、それらしい人相の男には絶えて出会わない。
数年後、再び故国に政変が起り、叔孫豹は家族を斉に残して急遽帰国した。後、大夫として魯の朝に立つに及んで、初めて妻子を呼ぼうとしたが、妻は既に斉の大夫某と通じていて、一向夫の許に来ようとはしない。結局、二子孟丙・仲壬だけが父の所へ来た。
或朝、一人の女が雉を手土産に訪ねて来た。始め叔孫の方ではすっかり見忘れていたが、話して行く中にすぐ判った。十数年前斉へ逃れる道すがら庚宗の地で契った女である。独りかと尋ねると、倅を連れて来ているという。しかも、あの時の叔孫の子だというのだ。とにかく、前に連れてこさせると、叔孫はアッと声に出した。色の黒い・目の凹んだ・傴僂なのだ。夢の中で己を助けた黒い牛男にそっくりである。思わず口の中で「牛!」と言ってしまった。するとその黒い少年が驚いた顔をして返辞をする。叔孫は一層驚いて、少年の名を問えば、「牛と申します」と答えた。
母子ともに即刻引取られ、少年は豎(小姓)の一人に加えられた。それ故、長じて後もこの牛に似た男は豎牛と呼ばれるのである。容貌に似合わず小才の利く男で、すこぶる役には立つが、いつも陰鬱な顔をして少年仲間の戯れにも加わらぬ。主人以外の者には笑顔一つ見せない。叔孫にはひどく可愛がられ、長じては叔孫家の家政一切の切廻しをするようになった。
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