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文芸作品の映画化
ぶんげいさくひんのえいがか |
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作品ID | 1752 |
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著者 | 南部 修太郎 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「映畫時代五月號」 文藝春秋社 1927(昭和2)年5月1日 |
入力者 | 小林徹 |
校正者 | 小林繁雄 |
公開 / 更新 | 2002-01-17 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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最近、偶然に文藝作品の映畫化されたものをつゞけて三つ見た。ワイルドの「ウヰンダアミア夫人の扇」、ウエデキントの「春の眼覺め」、ロチの「氷島の漁夫」がそれだ。その中で「ウヰンダアミア夫人の扇」は原作とどうかうと云ふことは別問題として、流石にルビツチの監督したものだけあつて、映畫としても可成り面白く見た。然し、「春の眼覺め」は原作に非常に忠實であらうとする努力は見られたが、結局原作のパラフレエズになつてしまつて急所を突いた處がなく、映畫としては甚だ冗漫だつた。また、[#「また、」は底本では「また。」]「氷島の漁夫」は綺麗な映畫で撮影の苦心は大に感じられたが元來映畫化するのが無理な原作でずゐぶん苦しい映畫だ。あれを「氷島の漁夫」などと銘打たれては、作者生あらば抗議ぐらゐ申し出るに違ひない。
が、それはとにかく、文藝作品の映畫化は相變らず盛んらしい。これは文藝作品の――特に世界的な名篇傑作の撮影などと云へば、監督には勿論仕映えのある仕事だらうし、俳優達も進んで出演したがると云ふやうなこともあるからに違ひない。また一方にはそれで見物を樂に惹きつけようと云ふ映畫會社の興行政策も明にあるのだらう。日本にも繪書きの娘さんが女優になつたのがあるのとちよつと似てゐるが例のジヤン・ルノアアル監督の「ナナ」やヤニングス主演の「フアウスト」などの封切はもう近い内だらうしリリアン・ギツシユが「アンナ・カレンナ」に主演し、ロド・ラ・ロツタが「復活」のドミトリイを助演すると云ふのは映畫時代消息欄の受け賣りだが、日本でも岡田嘉子が「椿姫」に主演すると云ふし、「受難華」の映畫化が評判になつたのはつい先頃のことで、今更云ふまでもないことだ。
處で、これまでにも文藝作品の映畫化されたものは數知れない。が、私の見た限りでは感心したいのは殆ど無い。いや所謂文藝映畫と云へば寧ろ面白くないものと云ふ觀念さへ私には出來てしまつてゐる。文字で讀むべきものをスクリインの上に見る、そりや當り前の話だと思つてしまへばそれまでだが、原作の内容が出てゐるかゐないかは別問題にして、何しろ根本的な映畫としての面白味がいつも缺けてゐる。云ひ換へれば、文藝的内容と映畫的内容とが大概どつちつかずで、前者に片よつて原作に忠實であらうとすれば前に云つた「春の眼覺め」のそれになり、後者に片よつて映畫的に面白く行かうとすれば「氷島の漁夫[#「氷島の漁夫」は底本では「永島の漁夫」]」のそれになるのが所謂文藝映畫の極りきつた二つの型で、結局どつちに傾いてもそれは自殺することになるらしい。
滑稽なのは、いつだつたか「人形の家」を見たことがある。これは原作に忠實も忠實すぎて、あの三幕物を殆ど原作そのままの場面に撮影したもので、幸ひ私は内容的知識を持つてゐたからよかつたものの、それが無つたら[#「無つたら」はママ]結局何のことか分るまいと…