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摩周湖紀行
ましゅうこきこう
作品ID18329
副題――北海道の旅より――
――ほっかいどうのたびより――
著者林 芙美子
文字遣い旧字旧仮名
底本 「現代紀行文学全集 北日本編」 ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日
入力者林幸雄
校正者花田泰治郎
公開 / 更新2005-09-05 / 2014-09-18
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 宗谷本線の瀧川と云ふ古い驛に降りた。黄昏で、しかも初めての土地で一人の知人もなかつた。隨分と用意深かく、行く先々の樣子は、旅行案内で調らべておくのだけれども、途中で氣が變つてしまつて、根室本線へ這入つてみたくなり、乘りかへ驛の瀧川と云ふ處に、周章てゝ降りてしまつた。ホームを歩きながら私は驛夫をつかまへて、此町ではどのやうな宿屋がよいかと云ふことを聞かなければならない。樺太以降東京まで直行のつもりでゐたので、最早私の懷もとぼしい。
 町は寒かつた。毛織のスーツが結構間にあつた。
 此町では三浦華園と云ふのがいゝだらうと驛夫に聞いた。荷物を三浦華園の宿引きに頼んで、私は暮れそめた瀧川の町を歩いて宿へ行つた。官吏とか商人とかゞ、足だまりに寄つて行きさうな小さい町である。宿へ着くと私は頭の先きから足元まで出迎へた女達に見られなければならない。
 女で、しかも一人旅は不思議なことなのであらう。風呂に這入り夕食の膳を前にしたけれど、何としても佗しく、一合の酒を頼んだ。酒は二杯ばかりを唇にすると、最早胸につかへて苦しく、床をとらして眠つたが、床へ這入つたで急に眼がさえて來て眠れなかつた。
 黄昏に降りた不用意な旅人のために、根室へ行く汽車もなくて、ふかくにも私は瀧川で一泊しなければならなくなつたのだけれど、これも仕方ない。枕元の水差しの盆の上には、此一夜泊りの客の爲に、小さい列車時間表が置いてあつた。裏をめくると、明治三十八年出版運命よりとして國木田獨歩の一章が書いてある。
 ――「何處までお出ですか」突然一人の男が余に聲を掛けた「空知太まで行くつもりです」
「さうですか、それでは空知太にお出になつたら、三浦屋と云ふ旅人宿に泊つて御覽なさい」――
 獨歩が此三浦屋に泊つたのかどうかは判らないけれども、愛なく情なく見るもの荒凉寂寞たると嘆じた獨歩の一人旅を偶々面白く思つた。私も御同樣だ。明治三十八年と云へば私の生れたときだ。まだその頃の空知の國はもつと未開の地であつたに違ひない。
 天井の燈を消して枕元のスタンドをつけた。何か本を讀んで此愛なく情なく荒凉寂寞たる自分の氣持ちに應へたかつたけれど、何も讀む氣がしない。夜更けて嬌聲を聞いたけれど、女中が迎へに來て云ふには、「うちではカフヱーもやつてゐるんで厶いますが、お厭でなかつたらいらつしやいませんか」その嬌聲は女給達の聲であつた。
 妙に疲れてゐたので、そのまゝカフヱーにも行かないで枕元の燈火をつけたまゝ私は深く眠つてしまつた。
 翌朝は不幸なことに曇つてゐた。九時十五分の汽車で根室線に這入る。
 空知の風景は私には苦しすぎる位廣かつた。北海道の地圖は少しばかりコチヨウして小さくしてありはせぬかと思ふほど宏大で、空よりも平野が廣い。途中空知のぼんもじりより沛然たる雨で、澤梨の白い花が虹のやうに光つて見えた。黒くなつて畑を耕…

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