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苦しく美しき夏
くるしくうつくしきなつ
作品ID1847
著者原 民喜
文字遣い新字新仮名
底本 「夏の花・心願の国」 新潮文庫、新潮社
1973(昭和48)年7月30日
入力者tatsuki
校正者林幸雄
公開 / 更新2002-01-01 / 2014-09-17
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 陽の光の圧迫が弱まってゆくのが柱に凭掛っている彼に、向側にいる妻の微かな安堵を感じさせると、彼はふらりと立上って台所から下駄をつっかけて狭い裏の露次へ歩いて行ったが、何気なく隣境の空を見上げると高い樹木の梢に強烈な陽の光が帯のように纏わりついていて、そこだけが赫と燃えているようだった。てらてらとした葉をもつその樹木の梢は鏡のようにひっそりした空のなかで美しく燃え狂っている。と忽ちそれは妻がみたいつかの夢の極致のように彼におもえた。熱い海岸の砂地の反射にぐったりとした妻は、陽の翳ってゆく田舎路を歩いて行く。ぐったりとした四肢の疲れのように田舎路は仄暗くなってゆくのだが、ふと眼を藁葺屋根の上にやると、大きな榎の梢が一ところ真昼のように明るい光線を湛えている。それは恐怖と憧憬のおののきに燃えてゆくようだ。いつのまにか妻は女学生の頃の感覚に喚び戻されている。苦しげな呻き声から喚び起されて妻が語った夢は、彼には途轍もなく美しいもののようにおもえた。その夢の極致が今むこうの空に現れている……。彼にとっては一度妻の脳裏を掠めたイメージは絶えず何処かの空間に実在しているようにおもえた。と同時にそれは彼自身の広漠として心をそそる遠い過去の生前の記憶とも重なり合っていた。あの何か鏡のようにひっそりとした空で美しく燃え狂っている光の帯は、もしかするとあの頂点の方に総てはあって、それを見上げている彼自身は儚い影ではなかろうか。……これを見せてやろう、ふと彼は妻の姿を求めて、露次の外の窓から家のなかを覗き込んだ。妻は縁側の静臥椅子に横臥した儘、ぼんやりと向側の軒の方の空を眺めていた。それは衰えてゆく外の光線に、あたかも彼女自身の体温器をあてがっているような、祈りに似たものがある。ほんの些細な刺戟も彼女の容態に響くのだが、そうしていま彼女のいる地上はあまりにも無惨に罅割れているのだったが、それらを凝と耐え忍んでゆくことが彼女の日課であった。
「外へ椅子を持出して休むといいよ」
 彼は窓から声をかけてみた。だが、妻は彼の云う意味が判らないらしく、何とも応えなかった。その窓際を離れると、板壁に立掛けてあるデッキ・チェアーを地面に組み立てて、その上に彼は背を横えた。そこからもさきほどの、あの梢の光線は眺められた。首筋にあたるチェアーの感触は固かったが、彼はまるで一日の静かな療養をはたした病人のように、深々と身を埋めていた。
 それに横わると、殆どすべての抵抗がとれて、肉体の疵も魂の疼も自ら少しずつ医されてゆく椅子――そのような椅子を彼は夢想するのだった。その純白なサナトリウムは[#挿絵]気に満ちた山の中腹に建っていて、空気は肺に泌み入るように冷たいが、陽の光は柔かな愛撫を投げかけてくれる。そこでは、すべての物の象ががっちりとして懐しく人間の眼に映ってくる。どんな微細な症状もここでは隈なく照…

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