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![]() シャンハイされたおとこ |
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作品ID | 1879 |
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著者 | 牧 逸馬 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「日本探偵小説全集11 名作集1」 創元推理文庫、東京創元社 1996(平成8)年6月21日 |
初出 | 「新青年」1925(大正14)年4月号 |
入力者 | 大野晋 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2005-08-01 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 18 ページ(500字/頁で計算) |
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[#挿絵]
夜半に一度、隣に寝ている男の呻声を聞いて為吉は寝苦しい儘、裏庭に降立ったようだったが、昼間の疲労で間もなく床に帰ったらしかった。その男は前日無免許の歯医者に歯を抜いて貰った後が痛むと言って終日不機嫌だった。為吉が神戸中の海員周旋宿を渡り歩いた末、昨日波止場に近いこの合宿所へ流れ込んで、相部屋でその男と始めて会った時も、男は黙りこくって、煩そうに為吉を見やった丈けだった。
彼は近海商船の豊岡丸から下船した許りの三等油差しだという話だった。遠航専門の甲板部の為吉とは話も合わないので、夜っぴて唸っていても、為吉は別に気に止めなかったのである。
油臭い蒲団の中で、朝為吉が眼を覚ました時には、隣の夜具は空だった。彼は別に気に止めなかった。それよりも既う永い間、陸にいる為吉には機関の震動とその太い低音とが此の上なく懐しかった。殊に朝の眼覚めには、それが一入淋しく感じられた。
濠洲航路の見習水夫でも、メリケン行の雑役でも好いから、今日こそは一つ乗組まなくては、と為吉は朝飯もそこそこに掲示場へ飛び出した。黒板には只一つ樺太定期ブラゴエ丸の二等料理人の口が出ているだけで、その前の大卓の上に車座に胡座を掻いて、例もの連中が朝から壷を伏せていた。
「きあ、張ったり、張ったり!」
と鎮洋丸をごてって下された沢口が駒親らしかった。
「張って悪いは親父の頭――と」
「へん、張らなきゃ食えねえ提燈屋――か」
為吉は呆然と突っ立って、大きくなって行く場を見詰めていた。建福丸が一人で集めていた。
「いい加減におしよ、此の人達は」
と女将のおきん婆あが顔を出した。「今一人来てるんだよ、朝っばらから何だね。それから、為さん、鳥渡顔を貸して――」土間を通って事務所になっている表の入口へ出る迄、おきん婆あは低声に囁き続けた。
「素直にね、それが一番だよ。誰にだって出来心ってものはあるんだからさ、大したことはなかろうけれど、まあ、素直に、ね」
指の傷を気にし乍ら、為吉は何故か仏頂面をしていた。何か解ったような、それでいて何も解らないような妙な気もちだった。事務室には明るい午前の陽が漲って、暫らくは眼が痛いようだった。
「為ってのはお前か」
と太い声がした。返事をする前に、為吉は瞬きし乍ら声の主を見上げた。洋服を着た四十代の男だった。
「お前は坂本新太郎というのを知ってるだろう」
彼は矢継早やに質問した。坂本新太郎というのは昨夜の相部屋の男の名だった。相手の態度から何か忌わしい事件を直感した為吉は黙った儘頷いた。
「太い奴だ!」と男は為吉の手首を掴んだ。驚いた顔が幾つも戸の隙間に並んでいた。
「僕は観音崎署の者だ。一寸同行しろ」
超自然的に為吉は冷静だった。周囲の者が立騒ぐのを却って客観視し乍ら、口許に薄笑いさえ浮べていた。それが彼を極悪人のように…