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緑の軍港
みどりのぐんこう
作品ID1893
著者牧野 信一
文字遣い旧字旧仮名
底本 「「鬼涙村」復刻版」 沖積舎
1990(平成2)年11月5日
初出「讀賣新聞」1935(昭和10)年7月
入力者地田尚
校正者小林繁雄
公開 / 更新2002-11-26 / 2014-09-17
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 いつの間にかわたしの部屋の壁には、いろいろな軍艦の寫眞が額になつて、あちこちに並び、本棚の上には「比叡」と「那智」の模型が飾られ、水雷型の筆立には巡洋艦「鈴谷」進水式紀念の軍艦旗とZ旗があつた。「比叡」と「那智」の模型は、それぞれわたしが拜乘の機會に浴した思ひ出の爲に材料を買ひ集めて組み立てたものである。近日中にエンヂンを取り付けて競技會へ出場させて見ようと考へてゐる。わたしは去年の秋、軍港街に移ると間もなく「鈴谷」進水式拜觀の光榮に浴し、續いて驅逐艦「しぐれ」特務艦「劍崎」の進水式に參列の榮を得て、ひたすら胸を躍らせ、行状の謹愼を保つた。わたしの壁の寫眞の中には閃く海神鉾に飜へる久壽玉から五彩のテープが舞ひ亂れ、翼の音も輕やかな數羽の鳩が放たれた瞬間に堂々たる巨體を、あはや麗かな海上へ乘り入らうとする處女艦の英姿があつた。
 わたしはさういふ自分の小さな部屋で、造船作業の爲に夜を更かすことが多かつた。五分刈頭のわたしは、夜になると、街の被服商で購つて來た海兵用の白の作業服を着て、一服喫すといふ場合には、徐ろに胸のポケツトから、先頃「しぐれ」進水式の折に拜領した銀製のシガレツト・ケースを取り出し、高射砲型のライターからパチンと火をつけた。
 この横丁は街中で最も繁華な大通に側して崖際の露路であつた。全く同じ造りの二階家が數軒並んで、隣の二階にもわたしと同じやうな姿の若い士官がゐて夜更まで燈りの下で勉強して居り、そのまた隣も海兵の合宿所で時々、今日ハ手ヲ取リ語レドモ 明日ハ雲井ノヨソノ空 行クモ留ルモ國ノタメ 勇ミ進ミテ行ケヨ君――と合唱する聞くだに健やかな血の湧き立つ軍歌が響いた。わたしは何も彼も忘れるといふやうな恍惚の想ひに打たれるなどゝいふ機會に、凡そこれまで出遇つた驗もなく、終ひにはふら/\病になつてゐた折から、はじめてこの街に移り艦を眺め戰鬪機を見あげ、軍樂隊の大行進に力一杯のテープを投げ……いつかわたしは何の不安も疑惑も知らぬ偉大なる感激家に化してゐた。自分のことなどには何の未練も後悔もなく、時に、遺書なりと認める必要に出會ふ折もあれば、勇敢なる杉野兵曹長のそれと同樣に簡單明瞭なる一札で充分であると思はれるばかりであつた。
 それはさうと、このわたしの窓の下はそんな繁華な大通りの側面でありながら、急に暗くなつて、夜更けまで主に脚どり嚴めしい兵隊靴の音が絶えなかつたが、その脚どりの中に毎晩爽やかな横笛の練習をしながら戻つて來る者があり、餘程の熱心を籠めて吹奏するらしいその節廻しがいつもわたしの夢をほろ/\と誘ふおもしろさなので、一體何んな人なのか知らと憧れて、そつと見降ろすのであつたが、一向姿は定かではなかつた。深い泉水の底に眺める鯉のやうに淡く、吹奏者の姿は忽ち闇の彼方に吸はれて行つた。
 最初にわたしがその吹奏の歌を聞きはじめたのは、未だあたり…

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