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余話
よわ
作品ID1895
副題秘められた箱
ひめられたはこ
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆 別巻69 秘密」 作品社
1996(平成8)年11月25日
入力者加藤恭子
校正者もりみつじゅんじ
公開 / 更新2001-02-24 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 厳格らしい母だつた。
 幼時余は、母に、『論語』を学び、二宮尊徳の修身を聴講し、『ナショナル・りいどる』巻の一に依つて英語を手ほどかれ、『和訳すゐんとん万国史』を講義された。それらの記憶は、ひどく曖昧である。『論語』では、母のそれでは、「友アリ遠方ヨリ来ル」云々に就いての解釈を朧げに憶えてゐる。『ナショナル・りいどる』では、母がそれを購ふ時「なしよなる・りいどるの巻の一……」と云つたので、何やら余は、ハッとしたことを憶えてゐる。「巻の一」といふ響きが、余の姓名のそれと通じた気で、妙なハニカミを感じて、それとなく母の袂を握つたことを憶えてゐる。『すゐんとん万国史』は、余が稍[#挿絵]長じた頃だつたが、ただその書物の装幀が、灰色に太き金文字を印したる表紙を憶えてゐるのみである。おそらくこれは明治初年版の書物に相違ない。
 これに依つても、当時余が、いかに不熱心な母の弟子であつたか、といふことが察せられてならない。当年、海外にあつた余の父から月々送らるる様々な玩具、衣類、絵本の類などが今もなほ余の記憶に新しく甦るにも拘はらず、いかなれば母の教訓のみが、かくも朧げに記憶の向ふに薄れてゐるか――と、思ふと、われながら不孝の悪態を愧ぢずには居られない。
「芝居」の類は、観ることなく、余は中学校を終へた。「小説」の存在を知らずに成長してしまつた。
 薄暗い納戸の隅の、母の二つの書箱には、どんな書物が蓄へられてゐるのか?――常々それが、余の好奇心をそそつてゐた。或る時余は、母にこの質問を放つて、思はず彼女の息を塞らせたことがあつた。――なぜ余が、かかる質問を発したか、と云ふと、それは母が、夜々、余が寝静まつた後に、その箪笥のやうな恰好の黒い書箱から、一二冊の書物を取り出しては、ランプの下で頁を繰り、或る時は涙を浮べ、或る時は、微笑を漂はせ、または溜息をつき、余念もなく読書してゐる姿を、往々余は、夜着の間から半眼を見開く時に見て、不審を抱いたからである。――朝になると、その書物はいつの間にか姿を消して、書箱の観音開きには堅く錠が下ろされ、母の机上には、不景気な『ナショナル・りいどる』と、灰色の『すゐんとん万国史』等が悄然と積み重ねてあるばかりで、徒らに余の退屈をそそつたからである。
 余が、その質問を発した時、彼女がなんと答へたか、忘れてしまつたが、以来余は、余の枕辺で読書する母の姿に接することが無くなつたので、一層余は好奇心を助長せしめられたのであつた。
 母の旅行中のことだつた。或る日余は、盗賊の心となつて、鍵を盗み、母の黒い書箱の前に忍んだのである。――他人の整理物を掻き乱すことの、留守居中の持主に対するあの痛々しい悲しみは、さやうに余の如き不道徳を行つたことのある少数の同志には容易に、理解して貰へるだらう。……余は、馴れぬ手際で、乱暴にガチガチと錠前をねぢつた。――…

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