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ラ氏の笛
ラしのふえ
作品ID1904
著者松永 延造
文字遣い新字新仮名
底本 「日本文學全集70」 新潮社
1964(昭和39)年11月20日
入力者伊藤時也
校正者小林繁雄
公開 / 更新2001-05-22 / 2014-09-17
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

 横浜外人居留地の近くに生れ、又、其処で成育した事が何よりの理由となって、私は支那人、印度人、時には埃及人などとさえ、深い友誼を取り交した経験を持っている。そして彼れ等の一人一人が私に示した幾つかの逸事は、何れも温い記憶となって、今尚お私の胸底に生き残り、為す事もない病臥の身(それが現在に於ける私の運命)へ向って、限りない慰めの源を提供するのである。

 時は大正×年、秋の初め、場所はB全科病院の長い廊下であった。当時の私は副院長の下に働く臨時雇いの助手であり、面前に立つ私の友は若い印度人(アリヤン)で、極く小さい貿易商の事務員、ラオチャンド氏であった。
 彼れの汗で濡れた広い額は丁度雨上りの庭土のように、暗い光りで輝き、濃い眉毛に密接した奥深い眼は、物体の形よりも、寧ろ唯だその影だけを見つめているように、懶う気であった。彼れの鼻は以前にも増して、嶮しく尖り、木で造ったかと思われる程に堅い印象を私に与えた。一カ月以前迄、彼れが小指にはめて居たニッケルの指環――鷲の頭が彫ってある――は、今や彼れの薬指へと移っていた。この事実は彼れが最近、何れ程急激な速度で、痩せ初めたかを、明らかに証拠立てていた。
 その日、彼れは私の紹介によって、病院の三等室へ――それも特別の割引きで――入院する事に決めて貰ったのである。
 彼れは感謝の意を表すため、言葉を口走るよりも先に、大層慌てて私へ握手したが、その掌は一種不快な温さで、不用意な私を痛く驚かした。
「体温が恐らく三十八度五分位……」と、私は心の内でさえ、尚お吃りながら呟いた。

     二

 その翌晩、長い時間にわたって、停電があった。
 私は思い立って、蝋燭に火をつけ、不幸な患者、ラオチャンドの室――この室一つ丈けが病室から孤立していた、それも道理で、一時は其処が布団部屋にあてられていた事もあったのだが――を見舞ってやろうと決心した。
 私は夜の九時を報ずる遠い大時計の音を幽かに聴き入りつゝ、蝋燭の灯を消さぬよう、出来るだけ静かに、階段を踏み下って行こうとした。そして、上からじっと下方の闇を窺った時、何かしら自分の行く先が、泥水に満ちた深い谷間のように思われるので、自然と足の進みを躊躇せしめた。
 然し、私は遂にその谷間の最下へと達した。そして、閉ざされた室の扉を静かに開いて内部へ這入った時、私の予期は不意に其処で破壊された、というのは、一つの人影も、白いベッドの上には見出せなかったからである。
「ミスタ、ラオチャンド……」と、私は自分をも不快にさせる程な反響を持った声で、呼んで見た。
 答えは極く低声に、ベッドの向う側から湧き起った――全く湯気の如く落ち着いた調子で、下方から浮き上って来た。私は直ぐその方向へ回って見た。そして、更に新らしい驚きで、自分を戦慄せしめた。(当時、私は若い新参者で、未だ…

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