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毛の指環
けのゆびわ
作品ID1975
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第三巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年3月20日
初出「若草」1927(昭和2)年12月号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2002-10-29 / 2014-09-17
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 その家は夏だけ開いた。
 冬から春へかけて永い間、そこは北の田舎で特別その数ヵ月は歩調遅く過ぎるのだが、家は裏も表も雨戸を閉めきりだ。屋根に突出した煙の出ぬ細い黒い煙突を打って初冬の霰が降る。積った正月の雪が、竹藪の竹を重く辷って崩れ落ちる。その音を聴く者も閉めた家の中にはいない。煤で光る[#挿絵]の下に大きな炉が一つ切ってあって、その炉の灰ばかりが、閉め切った雨戸の節穴からさし込む日光の温みにつれ、秋の末らしく湿り、また春の始めらしく軽く乾く。――微かな生きものだ。
 侘しい古い家も、七月になると一時に雨戸という雨戸を野外に向って打ち開き甦った。東京から、その家の持ち主の妻や子供達や、従兄従妹などという活発な眷属がなだれ込んで来て部屋部屋を満した。永い眠りから醒まされて、夏の朝夕一しお黒い柱の艶を増すような家の間で、華やかな食慾の競技会がある。稚い恋も行われる。色彩ある生活の背景として、棚の葡萄は大きな美しい葉を房々と縁側近くまで垂らして涼風に揺れた。真夏の夕立の後の虹、これは生活の虹と云いたい光景だ。
 由子は、独りで奥の広間にいた。開け放した縁側から、遠くの山々や、山々の上の空の雲が輝いているのまで一眸に眺められた。静かな、闊やかな、充実した自然がかっちり日本的な木枠に嵌められて由子の前にある。全く、杉森をのせ、カーバイト会社の屋根の一部を見せ、遠く遠くとひろがる田舎の風景は、手近いところで一本、ぐっと廊下の角柱で画される為、却って奥ゆきと魅力とを増しているようだ。
 由子は、樟の角机に肱をつき目前の景色に眺め入っていた。樟は香高い木だ。その芳ばしさは如何にも八月の高燥な暑さや澱みなき日の光と釣り合って、隈なき落付きというような感情を彼女に抱かせる。
 ――そうやっていると、彼方の庭までずっと細長く見徹せるやや薄暗い廊下をお清さんがやって来た。白地の浴衣に襷がけの甲斐甲斐しさだ。彼女は由子の傍へ来ると、
「ちょっと、こんなもの」
と云って膝をつきながら、笑って両手の間に小さい紫のメリンスの布をひろげて見せた。
「何なの」
「あなたのでしょう」
「あら? 前かけね」
「長持ちのお布団の間から出たんですよ」
 由子は漠然と懐しささえ感じて、そのメリンスの小っぽけな前掛に触って見た。前掛と云っても、袷の膝をよごさない為ほんの膝被いのつもり故、紫の布は僅か一尺余りの丈しかなかった。もう虫が喰っていた。ぽつぽつ小さい穴や大きな穴の出来たその古前掛は、並はずれて丈がつまっているだけどこやらあどけない愛嬌さえある。
「あら感心にまだこの紐がちゃんとしている」由子は一種の愛惜を面に表して、藤紫の組紐をしごいたりしたが、やがて丁寧にそれを畳んで、お清さんの前へ置いた。
「あなた大働きだから、勲章にこれさし上げます」
「おやまあ」
 お清さんは、笑いながらそれを戴いた。…

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