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乳房
ちぶさ
作品ID1991
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第五巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年12月20日
初出「中央公論」1935(昭和10)年4月号
入力者柴田卓治
校正者原田頌子
公開 / 更新2002-06-05 / 2014-09-17
長さの目安約 57 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

        一

 何か物音がする……何か音がしている……目ざめかけた意識をそこへ力の限り縋りかけて、ひろ子はくたびれた深い眠りの底から段々苦しく浮きあがって来た。
 真暗闇の中に目をあけたが頭のうしろが痺れたようで、仰向きに寝た枕ごと体が急にグルリと一廻転したような気がした。寝馴れた自分の部屋の中だのに、ひろ子は自分の頭がどっちを向いているか、突嗟にはっきりしなかった。
 眼をあけたまま耳を澄していると、音がしたのは夢ではなかった。時々猫がトタンの庇の上を歩いて大きい音を立てることがある、それとも違う、低い力のこもった物音が階下の台所のあたりでしている。
 ひろ子は音を立てず布団を撥ねのけ、裾の方にかけてある羽織へ手をとおしながら立ち上った。染絣の夜着の袖が重なるぐらいのところに、もう一人の同僚の保姆タミノが寝ている。足さぐりで部屋の外へ出ようとして、ひろ子は思わずよろけた。
「なに?……あかりつけようか?」
 タミノは半醒の若々しい眠さで舌の縺れるような声である。
「……待って……」
 泥棒とも思えなかったが、ひろ子の気はゆるまなかった。九月に市電の争議がはじまってから、この託児所も応援に参加し、古参の沢崎キンがつれて行かれてからは時ならぬ時に私服が来た。何だ、返事がないから、空巣かと思ったよなどと、ぬけぬけ上り込まれてはかなわない。ひろ子にはまた別の不安もあった。家賃滞納で家主との間に悶着が起っていた。御嶽山お百草。そういう看板の横へ近頃新しく忠誠会第二支部という看板を下げた藤井は、こまかい家作をこの辺に持っていて、滞納のとれる見込みなしと見ると、ごろつきを雇って殴りこみをさせるので評判であった。脅しでなく、本当に畳をはいで、借家人をたたき出した。
 四五日前にもその藤井がここへやって来た。藤井は角刈の素頭で、まがいもののラッコの衿をつけたインバネスの片袖を肩へはねあげ、糸目のたった襦子足袋の足を片組みにして、
「女ばっかりだって、そうそうつけ上って貰っちゃこっちの口が干上るからね。――のかれないというんなら、のけるようにしてのかす。洋服なんぞ着た女に、ろくなのはありゃしねえ」
 いかつい口を利きながら、眼は好色らしく光らせた。スカートと柔かいジャケツの上から割烹着をつけ、そこに膝ついているひろ子の体や、あっち向で何かしているタミノの無頓着な後つきをじろり、じろり眺めて、ねばって行った。いやがらせでも始めたか。畜生! という気もあって、ひろ子は六畳の小窓を急に荒っぽくあけて外を見おろした。
 夜露に濡れたトタンが月に照らされている、平らに沈んだその光のひろがりが、ひろ子の目をとらえた。見えないところで既に高く高くのぼっている月の隈ない光は、夜霧にこめられたむこうの原ッぱの先まで水っぽく細かく燦めかせ、その煙るような軽い遠景をつい目の先に澱ませて、こ…

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