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海流
かいりゅう |
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作品ID | 1994 |
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著者 | 宮本 百合子 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「宮本百合子全集 第五巻」 新日本出版社 1979(昭和54)年12月20日 |
初出 | 「文芸春秋」1937(昭和12)年8月号 |
入力者 | 柴田卓治 |
校正者 | 原田頌子 |
公開 / 更新 | 2002-06-05 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 74 ページ(500字/頁で計算) |
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一
やっと客間のドアのあく音がして、瑛子がこっちの部屋へ出て来た。上気した頬の色で、テーブルのところへ突立ったままでいた順二郎と宏子のわきを無言で通り、黙ったまま上座のきまりの席に座った。
そういう母に宏子も順二郎も何も云えなかった。それぞれ坐り、ちぐはぐな夕飯がはじまった。瑛子は箸をとると、型どおりお椀のふたをとったり、野菜を口へ運んだりした。けれどもその様子はただそうやってたべているというだけで、全く心は娘や息子のところに来ていないことが感じられる。宏子は胸がいっぱいで味も分らなかった。
田沢は帰らないで、別な膳が一つだけ彼のために客間の方へ運ばれている。そんなにしてまで、一家の空気の中に彼の存在が主張される不自然な苦痛な緊張が、妙にごたごたした前後のいきさつの裡にあるのであった。
一言も口を利く者もなくてこっちの食事が、落付かない雰囲気の中でどうやら終った。すると、瑛子はすぐ立ちかかって、
「お客間へお茶がいるよ」
と女中に云ったなり、息子と娘に言葉をかけず着物の衿元をつくろいながら、化粧を直すために洗面所の方へ行ってしまった。
白堊の天井から頭の上に煌々と百燭光が輝いている。一輪插し、銀の楊枝箱、鋏、装飾用の寒暖計などがのっている飾盆を挾んで、再び順二郎と宏子とはテーブルのところにのこされた。隈ない光を浴びている順二郎のふっくりとした柔和な顔は幾分蒼ざめて、鼻の下に和毛の微かな陰翳はごみっぽいような疲れたような感じに見える。彼はさっきからひとことも云わず、ふだんより余計瞬きをするような表情で姉を見ているのであった。しばらくして、
「順ちゃん、これからどうする?」
と、宏子がやっとのことで出したようなあたりまえの声の調子できいた。
「僕?」
嵩の高い膝をすこし揺るようにして、順二郎はその独特なふくらみで顔に表情を与えている上瞼の下から素直に姉をみた。
「僕はドイツ語の文典をやる」
「――順ちゃん。一円ばかりもってる?」
「うん、あると思う」
「かしてね。あとで母様に云って返してもらって。――いい?」
「ああ。今すぐ?」
「うん」
弟から金をうけとると、宏子は玄関へ出て靴をはいた。
「すっかり帰っちゃうの?」
うしろに立って姉が靴をはくのを見ていた順二郎がきいた。
「ええ。――だって……。平気だろう?」
「僕はいいさ」
宏子は、お茶の水駅に向って本郷通りの夜店の出ていない側をよって歩いて行った。土曜日の晩らしく、むこう側の明るい書店に白線入りの制帽をかぶった数人の学生の姿が見えたり露店の花屋の前でむき出しの電燈に顔を近々と照らされながら並んで佇んで何か云っている夫婦づれの姿も見える。宏子は合外套のポケットへ手をさしこんで、自分にかかわりのない遠いところにある風景でも眺めるような眼付で、折々賑やかな方を見ながら歩いていた…