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風知草
ふうちそう
作品ID2014
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第六巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年1月20日
初出「文芸春秋」1946(昭和21)年9~11月号
入力者柴田卓治
校正者松永正敏
公開 / 更新2002-10-11 / 2014-09-17
長さの目安約 90 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

        一

 大きな実験用テーブルの上には、大小無数の試験管、ガラス棒のつっこまれたままのビーカア。フラスコ。大さの順に並んだふたつきのガラス容器などがのせられている。何という名か、そして何に使われるものかわからないガラスのくねった長いパイプが上の棚から下っている。透明なかげを投げあっているガラスどもの上に、十月下旬の午後の光線がさしていた。武蔵野の雑木林のなかに建てられている研究所は自然の深い静寂にかこまれていて、実験室の中には微かにガスの燃える音がしていた。一隅の凹んだところで、何かの薬物が煮られているのであった。
 ドアに近い実験用テーブルの端に、小さい電気コンロがのっていた。その上に、金網のきれぱしが置かれ、薄く切ったさつまいもが載せられている。まわりに、茶のみ茶碗、鮭カンの半分以上からになったの、手製のパンなどが、ひろげられている。
 静かな、すみとおった空気の中に、いもの焼ける匂いが微かに漂いはじめた。
「そろそろやけて来たらしいね」
「……もうすこうしね」
「そっちの、こげやしないか」
「そうかしら」
 実験用テーブルの端へもたれのある布張椅子をひきよせて、いものやけるのをのぞいているのは、重吉であった。親しい友達がもって来てくれた柄の大きすぎるホームスパンの古服を着て、ひろ子が彼の故郷からリュックに入れて背負って来た靴をはいて、いものやけるのを見ている。無期懲役で網走にやられていた重吉は、十二年ぶりで、十月十日に解放された。いが栗に刈られた重吉の髪は、まだ殆どのびていない。
 ひろ子は、元禄袖の羽織に、茶紬のもんぺをはいて、実験用の丸椅子にかけ、コンロの世話をやいていた。
「さあ、もうこれはよくってよ」
「――あまいねえ。ひろ子もたべて御覧」
「網走においもはあったこと?」
「あっちは、じゃがいもだ。農園刑務所だからね、囚人たちでつくっているんだ」
「あなたなんか和裁工でも、じゃがいもぐらいは、たっぷりあがれたの?」
「東京よりはよかったさ。――巣鴨のおしまい頃はひどかったなあ……これっぽっちの飯なんだから。二くち三くちで、もう終りさ」
 重吉は網走で、独居囚の労役として、和裁工であった。囚人たちが使ってぼろになったチョッキ、足袋、作業用手套を糸と針とで修繕する仕事であった。朝の食事が終ると、夕飯が配られる迄、その間に僅かの休みが与えられるだけで、やかましい課程がきめられていた。日曜大祭日は、その労役が免除された。そういう日に、重吉たちは、限られた本をよむことが出来た。そのかわりに、その日は食事の量が減らされた。本のよめる日は必ず空腹でなければならなかった。労役免除の日は食餌を減らして、囚人たちが休日をたのしみすぎないようにする。それが、監獄法による善導の方法と考えられているのである。
 焼けたいもをとって、ひろ子もたべた。
「あら…

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