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伸子
のぶこ
作品ID2015
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第三巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年3月20日
初出「改造」1924(大正13)年9月号~1926(大正15)年9月号
入力者柴田卓治
校正者もりみつじゅんじ、地田尚
公開 / 更新2011-04-09 / 2014-09-16
長さの目安約 474 ページ(500字/頁で計算)

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本文より






 伸子は両手を後にまわし、半分明け放した窓枠によりかかりながら室内の光景を眺めていた。
 部屋の中央に長方形の大テーブルがあった。シャンデリヤの明りが、そのテーブルの上に散らかっている書類――タイプライタアの紫インクがぼやけた乱暴な厚い綴込、隅を止めたピンがキラキラ光る何かの覚え書――の雑然とした堆積と、それらを挾んで相対し熱心に読み合せをしている二人の男とをくっきり照して、鼠色の絨毯の上へ落ちている。
 部屋じゅうを輝かす灯が単調であるとおり、二人の男の仕事も単調でつまらなかった。ホームスパンの服を着た、浅黒い瘠せた男が左手に綴込を持ち、眼をくばり、頁をめくり、どんどん桁の多い数字を読みあげて行く。向い合って、伸子の父の佐々が椅子に浅くかけ、青鉛筆を持って油断なく数字をチェックしていた。彼は品のよい縞の変り襟のついたスモーキング・ジャケットを着けていた。くつろいだなりにも似合わず、彼はもう三十分以上その忙しい、機械的な仕事に没頭しているのであった。
 傍観している伸子には、仕事の内容も、今それをしなければならない必要も解っていなかった。彼女がおとなしく窓際にしりぞいて眺めているのは、主として、子供のうちから父の多忙な時決して邪魔はできないものと観念している習慣によるのであった。けれども、彼女はだんだん彼らの活動の調子につりこまれて行った。強くも弱くもならない平らな声が早口に、
「二八七コムマ二六〇。五九三〇三コムマ四二七……」
 勤勉な紡※[#「糸+垂」、U+7D9E、6-9]の唸りのようだ。それにつれ、佐々の青鉛筆はほとんど自働機的敏活さでさっさっ、さっさと、細かく几帳面に運動する。そこに自ら独特のリズムが生じた。じっと見守っていると、機械の規則正しい運転が人の心に与える、力強い確乎とした、同時に精力的な亢奮に似たものを感じるのであった。
 彼らは一息にふた綴大判の綴込をかたづけた。そして少しのろのろと、三つめの薄い覚え書を読み合せてしまうと佐々は、いかにも重荷の下りた風で、
「やあ、どうも御苦労様でした」
と、頭を下げ椅子をずらした。
 あたりには、一時に緊張の緩みが来た。伸子まで何となくほっとし、俄に外界の騒音が自分の背後から幅広く押しよせてくるのを感じた。丁度晩餐後、人の出さかる最中だ。彼女らのいる五階の真下に横たわるブロウドウエイからは、絶間なく流れる無数の人間の跫音、喋り声、笑い声などが溶け合い混り合い、とりとめのない雑音の濃い瓦斯体となってのぼって来た。夜の空まで瀰漫する都会の巨大などよめきを貫いて、キロロロロロ……と自動車の警笛が聞えた。燈柱の下で夕刊を呼び売する子供の「パイパア、パイパア」と云う甲高い声がとぎれとぎれ聞えて来る。――ホームスパンの男は、手早く書類をまとめて自分の黄色い手提げ鞄にしまった。そして、二言三言佐々と…

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