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![]() せいニコラウスのよ |
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作品ID | 2063 |
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原題 | SANKT NIKOLAUS BEI DEN SCHIFFERN |
著者 | ルモンニエー カミーユ Ⓦ |
翻訳者 | 森 鴎外 Ⓦ / 森 林太郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「鴎外選集 第14巻」 岩波書店 1979(昭和54)年12月19日 |
初出 | 「三田文学 四ノ一―四」1913(大正2)年11月~12月 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | しず |
公開 / 更新 | 2001-10-25 / 2016-02-01 |
長さの目安 | 約 29 ページ(500字/頁で計算) |
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テルモンド市の傍を流れるエスコオ河に、幾つも繋いである舟の中に、ヘンドリツク・シツペの持舟で、グルデンフイツシユと云ふのがある。舳に金色に光つてゐる魚の標識が附いてゐるからの名である。シツペの持舟にこれ程の舟が無いばかりでは無い、テルモンド市のあらゆる舟の中でも、これ程立派で丈夫な舟は無い。この大きい、茶色の腹に、穀物や材木や藁や食料を一ぱい積んで、漆塗の黒い煙突から渦巻いた煙を帽の上の鳥毛のやうに立たせて走るのを見ると、誰でも目を悦ばせずにはゐられない。
今宵は外の舟と同じやうに、グルデンフイツシユも休んでゐる。太い綱で繋がれてゐる。午後七時には、もう舟の中が暗くなつたが、横腹に開いてゐる円い窓からは、魚の目のやうに光る燈がさす。これはブリツジの下の小部屋で、これから聖ニコラウスを祭らうとしてゐるからである。壁に取り附けてある真鍮の燭台には、二本の魚蝋が燃えてゐる。鉄の炉は河水が堰を衝いて出る時のやうな音を立ててゐる。
ネルラ婆あさんが戸を開けて這入つて来た。其跡から亭主のトビアス・イエツフエルスが這入つた。これが持主シツペから舟を預けられてゐる爺いさんである。
部屋の中から若々しい女の声がした。「おつ母さん。わたしあの黒い川面に舟の窓の明りが一つ一つ殖えるのを見てゐますの。」
「さうかい。だがね、お前、窓に明りが附くのを、そんなにして長い間見てゐるのではないだらう。ドルフが帰るのを待つてゐるのだらう。」
「おつ母さん好く中りますことね。」かう云つて若い女は窓の下から炉の傍へ歩み寄つて、腰を卸しながら、持つてゐた小さい鍼を帽子に插した。
「それは、お前、おつ母さんでなくつて、誰が御亭主の事を思つてゐる若いお上さんの胸が分かるものかね。」
かう云ひながら、婆あさんは炉の蓋を開けて、鍋を掛けた。炉はそれが嬉しいと見えて、ゆうべ市長さんの代替の祝に打つた大砲のやうな音をさせてゐる。それから婆あさんは指を唾で濡らして、蝋燭の心を切つた。
部屋は小さい。穹窿の形になつた天井と、桶の胴のやうに木を並べて拵へた壁とを見れば、部屋は半分に割つた桶のやうだと云つても好い。壁はどこも[#挿絵]児に包まれて、殊に炉に近い処は黒檀のやうに光つてゐる。卓が一つ、椅子が二つある。寝台の代りになる長持のやうな行李がある。板を二枚中為切にした白木の箱がある。箱に入れてあるのは男女の衣類で、どれも魚の臭がする。片隅には天井から網が弔つてある。其の傍には[#挿絵]児に児を塗つた雨外套、為事着、長靴、水を透さない鞣革の帽子、羊皮の大手袋などが弔つてある。マドンナの画額の上の輪飾になつてゐるのは玉葱である。懸時計の下に掛けてあるのは、腮を貫き通した二十匹ばかりの鯡で、腹が銅色に光つてゐる。
この一切の景物は皆黄いろい蝋燭の火で照し出されてゐる。大きい影を天井に印してゐる蝋燭の火であ…