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わに
作品ID2069
原題Das krokodil(独訳)
著者ドストエフスキー フィヨードル・ミハイロヴィチ
翻訳者森 鴎外 / 森 林太郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「鴎外選集 第15巻」 岩波書店
1980(昭和55)年1月22日
初出1912(明治45)年5月-6月「新日本」二ノ五-六
入力者tatsuki
校正者浅原庸子
公開 / 更新2002-01-16 / 2014-09-17
長さの目安約 85 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

 己の友達で、同僚で、遠い親類にさへなつてゐる、学者のイワン・マトヱエヰツチユと云ふ男がゐる。その男の細君エレナ・イワノフナが一月十三日午後〇時三十分に突然かう云ふ事を言ひ出した。それは此間から新道で見料を取つて見せてゐる大きい鰐を見に行きたいと云ふのである。夫は外国旅行をする筈で、もう汽車の切符を買つて隠しに入れてゐる。旅行は保養の為めと云ふよりは、寧ろ見聞を広めようと思つて企てたのである。さう云ふわけで、言はゞもう休暇を貰つてゐると看做しても好いのだから、その日になんの用事もない。そこで細君の願を拒むどころでなく、却て自分までが、この珍らしい物を見たいと云ふ気になつた。
「好い思ひ付きだ。その鰐を一つ行つて見よう。全体外国に出る前に、自分の国と、そこにゐる丈のあらゆる動物とを精しく見て置くのも悪くはない。」夫は満足らしくかう云つた。
 さて細君に臂を貸して、一しよに新道へ出掛ける事にした。己はいつもの通り跡から付いて出掛けた。己は元から家の友達だつたから。
 この記念すべき日の午前程、イワンが好い機嫌でゐた事はない。これも人間が目前に迫つて来てゐる出来事を前知する事の出来ない一例である。新道へ這入つて見て、イワンはその建物の構造をひどく褒めた。それから、まだこの土地へ来たばかりの、珍らしい動物を見せる場所へ行つた時、己の分の見料をも出して、鰐の持主の手に握らせた。そんな事を頼まれずにした事はこれまで一度もなかつたのである。夫婦と己とは格別広くもない一間に案内せられた。そこには例の鰐の外に、秦吉了や鸚鵡が置いてある。それから壁に食つ付けてある別な籠に猿が幾疋か入れてある。戸を這入つて、直ぐ左の所に、浴槽に多少似てゐる、大きいブリツキの盤がある。この盤は上に太い金網が張つてあつて、そこにやつと一寸ばかりの深さに水が入れてある。この浅い水の中に、非常に大きい鰐がゐる。まるで材木を横へたやうに動かずにゐる。多分この国の湿つた、不愉快な気候に出合つて、平生の性質を総て失つてしまつたのだらう。そのせいか、どうもそれを見ても、格別面白くはない。
「これが鰐ですね。わたしこんな物ではないかと思ひましたわ。」細君は殆ど鰐に気の毒がるやうな調子で、詞を長く引いてかう云つた。実は鰐と云ふものが、どんな物だか、少しも考へてはゐなかつたのだらう。
 こんな事を言つてゐる間、この動物の持主たるドイツ人は高慢な、得意な態度で、我々一行を見て居た。
 イワンが己に言つた。「持主が息張つてゐるのは無理もないね、兎に角ロシアで鰐を持つてゐる人は、目下この人の外ないのだから。」こんな余計な事を言つたのも、好い機嫌でゐたからだらう。なぜと云ふに、イワンは不断人を嫉む男で、めつたにこんな事を言ふ筈はないからである。
「もし。あなたの鰐は生きてはゐないのでせう。」細君がドイツ人に向…

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