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余興
よきょう
作品ID2079
著者森 鴎外
文字遣い新字新仮名
底本 「阿部一族・舞姫」 新潮文庫、新潮社
1968(昭和43)年4月20日
初出「アルス」1915(大正4)年8月
入力者j_sekikawa
校正者しず
公開 / 更新2001-08-13 / 2014-09-17
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 同郷人の懇親会があると云うので、久し振りに柳橋の亀清に往った。
 暑い日の夕方である。門から玄関までの間に敷き詰めた御影石の上には、一面の打水がしてあって、門の内外には人力車がもうきっしり置き列べてある。車夫は白い肌衣一枚のもあれば、上半身全く裸[#挿絵]にしているのもある。手拭で体を拭いて絞っているのを見れば、汗はざっと音を立てて地上に灑ぐ。自動車は門外の向側に停めてあって技手は襟をくつろげて扇をばたばた使っている。
 玄関で二三人の客と落ち合った。白のジャケツやら湯帷子の上に絽の羽織やら、いずれも略服で、それが皆識らぬ顔である。下足札を受け取って上がって、麦藁帽子を預けて、紙札を貰った。女中に「お二階へ」と云われて、梯を登り掛かると、上から降りて来る女が「お暑うございますことね」と声を掛けた。見れば、柳橋で私の唯一人識っている年増芸者であった。
 この女には鼠頭魚と云う諢名がある。昔は随分美しかった人らしいが、今は痩せて、顔が少し尖ったように見える。諢名はそれに因って附けられたものである。もう余程前から、この土地で屈指の姉えさん株になっている。
 私には芸者に識合があろう筈がない。それにどうして鼠頭魚を知っているかと云うと、それには因縁がある。私の大学にいた頃から心安くした男で、今は某会社の頭取になっているのが、この女の檀那で、この女の妹までこの男の世話になって、高等女学校にはいっている。そこで年来その男と親くしている私を、鼠頭魚は親類のように思っているのである。
 私は二階に上がって、隅の方にあった、主のない座布団を占領した。戸は悉く明け放ってある。国技館の電燈がまばゆいように半空に赫いている。
 座敷を見渡すに、同郷人とは云いながら、見識った顔は少い。貴族的な風采の旧藩主の家令と、大男の畑少将とが目に附いた。その傍に藩主の立てた塾の舎監をしている、三枝と云う若い文学士がいた。私は三枝と顔を見合せたので会釈をした。
 すると三枝が立って私の傍に来て、欄干に倚って墨田川を見卸しつつ、私に話し掛けた。
「随分暑いねえ。この川の二階を、こんなに明け放していて、この位なのだからね」
「そうさ。好く日和が続くことだと思うよ。僕なんぞは内にいるよりか、ここにこうしている方が、どんなに楽だか知れないが、それでも僕は人中が嫌だから、久しくこうしていたくはないね。どうだろう。今夜は遅くなるだろうか」
「なに。そんなに遅くもなるまいよ。余興も一席だから」
「余興は何を遣るのだ」
「見給え。あそこに貼り出してある。畑閣下が幹事だからね」
 こう云って置いて、三枝は元の席に返ってしまった。
 私は始て気が附いて、承塵に貼り出してある余興の目録を見た。不折まがいの奇抜な字で、余興と題した次に、赤穂義士討入と書いて、その下に辟邪軒秋水と注してある。
 秋水の名は私も聞いていた。…

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