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椙原品
すぎのはらしな |
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作品ID | 2081 |
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著者 | 森 鴎外 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「鴎外歴史文学集 第三巻」 岩波書店 1999(平成11)年11月25日 |
初出 | 「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」1916(大正5)年1月 |
入力者 | kompass |
校正者 | しず |
公開 / 更新 | 2001-08-31 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 16 ページ(500字/頁で計算) |
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一
私が大礼に参列するために京都へ立たうとしてゐる時であつた。私の加盟してゐる某社の雑誌が来たので、忙しい中にざつと目を通した。すると仙台に高尾の後裔がゐると云ふ話が出てゐるのを見た。これは伝説の誤であつて、しかもそれが誤だと云ふことは、大槻文彦さんがあらゆる方面から遺憾なく立証してゐる。どうして今になつてこんな誤が事新しく書かれただらうと云ふことを思つて見ると、そこには大いに考へて見て好い道理が存じてゐるのである。
誰でも著述に従事してゐるものは思ふことであるが、著述がどれ丈人に読まれるかは問題である。著述が世に公にせられると、そこには人がそれを読み得ると云ふポツシビリテエが生ずる。しかし実にそれを読む人は少数である。一般の人に読者が少いばかりではない。読書家と称して好い人だつて、其読書力には際限がある。沢山出る書籍を悉く読むわけには行かない。そこで某雑誌に書いたやうな、歴史に趣味を有する人でも、切角の大槻さんの発表に心附かずにゐることになるのである。
某雑誌の記事は奥州話と云ふ書に本づいてゐる。あの書は仙台の工藤平助と云ふ人の女で、只野伊賀と云ふ人の妻になつた文子と云ふものゝ著述で、文子は滝沢馬琴に識られてゐたので、多少名高くなつてゐる。しかし奥州話は大槻さんも知つてゐて、弁妄の筆を把つてゐるのである。
文子の説によれば、伊達綱宗は新吉原の娼妓高尾を身受して、仙台に連れて帰つた。高尾は仙台で老いて亡くなつた。墓は荒町の仏眼寺にある、其子孫が椙原氏だと云ふことになつてゐる。
これは大に錯つてゐる。伊達綱宗は万治元年に歿した父忠宗の跡を継いだ。踰えて三年二月朔に小石川の堀浚を幕府から命ぜられ、三月に仙台から江戸へ出て、工事を起した。筋違橋即ち今の万世橋から牛込土橋までの間の工事である。これがために綱宗は吉祥寺の裏門内に設けられた小屋場へ、監視をしに出向いた。吉祥寺は今駒込にある寺で、当時まだ水道橋の北のたもと、東側にあつたのである。この往来の間に、綱宗は吉原へ通ひはじめた。これは当時の諸侯としては類のない事ではなかつたが、それが誇大に言ひ做され、意外に早く幕府に聞えたには、綱宗を陥れようとしてゐた人達の手伝があつたものと見える。綱宗は不行迹の廉を以て、七月十三日にに逼塞を命ぜられて、芝浜の屋敷から品川に遷つた。芝浜の屋敷は今の新橋停車場の真中程であつたさうである。次いで八月二十五日に、嫡子亀千代が家督した。此時綱宗は二十歳、亀千代は僅に二歳であつた。堀浚は矢張伊達家で継続することになつたので、翌年工事を竣つた。そこで綱宗の吉原へ通つた時、何屋の誰の許へ通つたかと云ふと、それは京町の山本屋と云ふ家の薫と云ふ女であつたらしい。それが決して三浦屋の高尾でなかつたと云ふ反証には、当時万治二年三月から七月までの間には、三浦屋に高尾と云ふ女がゐな…