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津下四郎左衛門
つげしろうざえもん
作品ID2082
著者森 鴎外
文字遣い新字旧仮名
底本 「鴎外歴史文學集 第三巻」 岩波書店
1999(平成11)年11月25日
初出「中央公論」1915(大正4)年4月
入力者kompass
校正者浅原庸子
公開 / 更新2001-08-28 / 2014-09-17
長さの目安約 46 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 津下四郎左衛門は私の父である。(私とは誰かと云ふことは下に見えてゐる。)しかし其名は只聞く人の耳に空虚なる固有名詞として響くのみであらう。それも無理は無い。世に何の貢献もせずに死んだ、艸木と同じく朽ちたと云はれても、私はさうでないと弁ずることが出来ない。
 かうは云ふものの、若し私がここに一言を附け加へたら、人が、「ああ、さうか」とだけは云つてくれるだらう。其一言はかうである。「津下四郎左衛門は横井平四郎の首を取つた男である。」
 丁度世間の人が私の父を知らぬやうに、世間の人は皆横井平四郎を知つてゐる。熊本の小楠先生を知つてゐる。
 私の立場から見れば、横井氏が栄誉あり慶祥ある家である反対に、津下氏は恥辱あり殃咎ある家であつて、私はそれを歎かずにはゐられない。
 此禍福とそれに伴ふ晦顕とがどうして生じたか。私はそれを推し窮めて父の冤を雪ぎたいのである。
 徳川幕府の末造に当つて、天下の言論は尊王と佐幕とに分かれた。苟も気節を重んずるものは皆尊王に趨つた。其時尊王には攘夷が附帯し、佐幕には開国が附帯して唱道せられてゐた。どちらも二つ宛のものを一つ/″\に引き離しては考へられなかつたのである。
 私は引き離しては考へられなかつたと云ふ。是は群集心理の上から云ふのである。
 歴史の大勢から見れば、開国は避くべからざる事であつた。攘夷は不可能の事であつた。智慧のある者はそれを知つてゐた。知つてゐてそれを秘してゐた。衰運の幕府に最後の打撃を食はせるには、これに責むるに不可能の攘夷を以てするに若くはないからであつた。此秘密は群集心理の上には少しも滲徹してゐなかつたのである。
 開国は避くべからざる事であつた。其の避くべからざるは、当時外夷とせられてゐたヨオロツパ諸国やアメリカは、我に優つた文化を有してゐたからである。智慧のあるものはそれを知つてゐた。横井平四郎は最も早くそれを知つた一人である。私の父は身を終ふるまでそれを暁らなかつた一人である。
 弘化四年に横井の兄が病気になつた。横井は福間某と云ふ蘭法医に治療を託した。当時元田永孚などと交つて、塾を開いて程朱の学を教へてゐた横井が、肉身の兄の病を治療してもらふ段になると、ヨオロツパの医術にたよつた。横井が三十九歳の時の事である。
 嘉永五年に池辺啓太が熊本で和蘭の砲術を教へた時、横井は門人を遣つて伝習させた。池辺は長崎の高島秋帆の弟子で、高島が嫌疑を被つて江戸に召し寄せられた時、一しよに拘禁せられた男である。兵器とそれを使ふ技術ともヨオロツパが優つてゐたのを横井は知つてゐた。横井が四十四歳の時の事である。
 翌年横井が四十五歳になつた時、Perry が横浜に来た。横井は早くも開国の必要を感じ始めた。安政元年には四十六歳で、ロシアの使節に逢はうとして長崎へ往つた。其留守には吉田松陰が尋ねて来て、置手紙をして帰つた。智者…

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