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![]() オンチ |
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作品ID | 2122 |
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著者 | 夢野 久作 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「夢野久作全集10」 ちくま文庫、筑摩書房 1992(平成4)年10月22日 |
入力者 | 柴田卓治 |
校正者 | ちはる |
公開 / 更新 | 2001-03-23 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 43 ページ(500字/頁で計算) |
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一
大戦後の好景気に煽られた星浦製鉄所は、昼夜兼行の黒烟を揚げていた。毎日の死傷者数名という景気で、数千人を収容する工場の到る処に、殺人的な轟音と静寂とがモノスゴく交錯していた。
汽鑵場の裏手に在る庭球場は、直ぐ横の赤煉瓦壁に静脈管のように匐い付いている蒸気管のシイシイ、スウスウ、プウプウいう音で、平生でも審判の宣告や、選手の怒号が殆んど聞こえなかった。テニスの連中はだから皆ツンボ・コートと呼んでいたが、それがこの頃では一層甚しくなって来たために不愉快なのであろう。滅多にテニスをしに来る者が無くなった。
しかしその淋しい審判席の近くに、誰が蒔いたかわからないコスモスの花が咲乱れる頃になると、十月十七日の起業祭が近付いて来るので、正午休みの時間に、時々職工達が芝居の稽古に来る事があった。
秋日のカンカン照っているテニス・コートの上で、菜葉服の職工連が、コスモスの花を背景にして、向い合ったり、組み合ったりして色々なシグサを遣るのはナカナカの奇観であった。近まわりの工場の連中がワイワイ取巻いて見ているうちに、お釜帽を冠った機械油だらけの職工が、板片の上に小石を二つ三つ並べて、腰元らしく尻を振り振り登場すると皆、一時にドッと笑い出したりした。勿論セリフは全くわからないし、身形も作らない作業姿なので、最初は何が何だかサッパリわからなかったが、だんだんと場面が進行するにつれて外題がわかって来た。二人きりで相手を蹴倒おすのは「熱海海岸」。鉄砲を撃つのは「山崎街道」。大勢で棒を担いで並ぶのは「稲瀬川勢揃い」。中には何が何やらわからない新劇もあるが、そんなものでも誰云うとなく「嬰児殺し」だの「夜の宿」だのとわかって来るようになったので、しまいには一組も稽古に来ないようになってしまった。
つまり演る方では大丈夫、わからないつもりで演っているのを、見物の方で一生懸命になって筋を読み取ろうとする。寄ってたかって外題の当てっこを競争するようになったので、各工場の演物を秘密にしたい気持から、どこか、ほかの処で稽古をするようになったらしかった。
二
十月十日の水曜日の午前九時頃のこと。汽鑵部の夜勤を終った職工が三人、そのツンボ・コートを通抜けて来た。
中央に立って歩いて来るのは、この製鉄所切っての怪力の持主で、名前は又野末吉、綽名をオンチという古参の火夫であった。体重百四十斤に近い、六尺豊かの図体で、大一番の菜葉服の襟首や、袖口や、ズボンの裾から赤黒い、逞ましい筋肉が隆々とハミ出しているところは、如何にも単純な飾り気のない性格に見える。のみならず、いつもニコニコしている小さな眼の光りが、処女のように柔和なので、さながらに巨大な赤ん坊のように見えた。
その大股にノッシノッシと歩く又野の右側から、チョコチョコと跟いて来る小柄な男は、油差しの戸…