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純粋小説論
じゅんすいしょうせつろん
作品ID2152
著者横光 利一
文字遣い新字新仮名
底本 「昭和文学全集 第5巻」 小学館
1986(昭和61)年12月1日
入力者阿部良子
校正者松永正敏
公開 / 更新2002-05-29 / 2014-09-17
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 もし文芸復興というべきことがあるものなら、純文学にして通俗小説、このこと以外に、文芸復興は絶対に有り得ない、と今も私は思っている。私がこのように書けば、文学について錬達の人であるなら、もうこの上私の何事の附加なくとも、直ちに通じる筈の言葉である。しかし、私はこの言葉の誤解を少くするために、少し書いてみようと思う。
 今の文壇の中から、真の純粋小説がもし起り得るとするなら、それは通俗小説の中から現れるであろうと、このように書いた達識の眼光を持っていた人物は、河上徹太郎氏である。次に通俗小説と純文芸とを何故に分けたのか、別けたのが間違いだと云った大通は、幸田露伴氏である。次に、もし日本の代表作家を誰か一人あげよと外人から迫られたら、自分は菊池寛をあげると云った高邁な批評家は、小林秀雄氏である。今日の行き詰った純文学に於て以上のような名言が文学に何の影響も与えずに、素通りして来たのは、どうした理由であろうかと、もう一度考え直してみなければ、純文学は衰滅するより最早やいかんともなし難いとこのように思った私は、この正月の五日の読売新聞へ、純文学にして通俗小説の一文を書いた。私の文章は、以上の人々の尻馬に乗ったまでで、何ら独創的な見解があったわけではない。しかし、今は、達識の文学者の中では、私の云ったような言葉は定説とさえなっているのであるが、言葉の意味は、さまざまな誤解をまねいたようであった。
 今の文学の種類には、純文学と、芸術文学と、純粋小説と大衆文学と、通俗小説と、およそ五つの概念が巴となって乱れているが、最も高級な文学は、純文学でもなければ、芸術文学でもない。それは純粋小説である。しかし、日本の文壇には、その一番高級な純粋小説というものは、諸家の言のごとく、殆ど一つも現れていないと思う。純粋小説の一つも現れていない純文学や芸術文学が、いかに盛んになろうと、衰滅しようと、実はどうでも良いのであって、激しく云うなら、純粋小説が現れないような純文学や芸術文学なら、むしろ滅んでしまう方が良いであろうと云われても、何とも返答に困る方が、真実のことである。
 それなら、いったい純粋小説とはいかなるものかということになるのだが、この難しい問題の前には、通俗小説と純文学の相違を、出来る限り明瞭にしなければならぬ関所がある。人々は、この最初の関所で間誤間誤してしまって、ここ以上には通ろうとしないのが、現状であるが、それでは一層ややこしくなる純粋小説の説明など、手のつけようがなくなって、誰もそのまま捨ててしまい、今は手放しの形であるのは尤もといわねばならぬ。しかし、考えてみれば、純文学の衰弱は、何と云っても純粋小説の現れないということにあるのであるから、文壇全体の眼が、純粋小説に向って開かれたら、恐らく急流のごとき勢いで純文学が発展し、真の文芸復興もそのとき初めて、完成されるに…

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