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マルクスの審判
マルクスのしんぱん
作品ID2159
著者横光 利一
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本横光利一全集 第一巻」 河出書房新社
1981(昭和56)年6月30日
初出「新潮」新潮社、1923(大正12)年8月1日発行、第39巻第2号
入力者高寺康仁
校正者松永正敏
公開 / 更新2001-12-11 / 2014-09-17
長さの目安約 27 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 市街を貫いて来た一条の道路が遊廓街へ入らうとする首の所を鉄道が横切つてゐる。其処は危険な所だ。被告はそこの踏切の番人である。彼は先夜遅く道路を鎖で遮断したとき一人の酔漢と争つた。酔漢は番人の引き止めてゐるその鎖を腹にあてたまま無理にぐんぐんと前へ出た。丁度そのとき下りの貨物列車が踏切を通過した。酔漢は跳ね飛ばされて轢死した。
 そこで、予審判事は、番人とはかやうな轢死を未然に防ぐための番人である以上、泥酔者の轢死は故殺であるかそれとも偶然の死であるかを探ぐるがため許りにさへも、そのときの争ひに作用した番人の心理の上に十分の疑ひを持たねばならなかつた。それに彼はその疑ひをなほ一層確実に疑ひ得られる様々の材料を発見した。第一に番人は貧しい独身者であつた。第二に轢死者は資産家の蕩児であつた。第三に番人のゐる踏切が遊廓街の入口であつた。しかし、此の被告の上に明確な判決を下すことは、事件そのものが心理的なものであるだけに容易なことではなかつた。先づその事件の現状を目撃したものがなかつたと云ふことでさへ、判事にとつて此の審問方法は普通の手ではとても無駄だと分つてゐた。
「お前は四十一だと云つたね。妻を貰つたならどうだ。生活に困るのかな。」
「いえ、別に困りはいたしません。」
「と云ふと、望ましいのがないからか。」
「来てくれる者がないんです。」
「ふむ、では、呉れ手のあるまで捜せばよいではないか。」
「私はこれでもう三度妻を変へたのです。」
「三度な?」と云って判事は一寸笑つた。「それはまたどうしたのだね。」
「皆死んで了つたんです。」
「ふむ、死んだのか、それでその来るものがないと云ふのか。」
「いえ、三人とも同じ病気で死んだからだと思ひます。」
「三人とも同じ病気か、成る程ね、そして、それはどう云ふ病気かね。」
 さう訊いたとき判事は被告の窪んだ眼窩の底から恐怖を感じさせる一種不思議な微笑を見てとつた。そして、これは烈しい神経衰弱にかかつてゐるなと思ひながらも、被告の答へた膜と云ふ婦人病の四番目の文字は「月」であつたかそれとも「[#挿絵]」であつたかと一寸考へてみてから直ぐ又質問を次へ移した。
「それで何か、その夜お前は酒を少しも飲んではゐなかつたか。」
「飲みませんでした。」
「いつもは飲むんだらうね。」
「さう飲むと云ふほどは飲めません。」
「お前はあの踏切の最初からの番人だつたのだね。」
「はい。」
「失策が一度もなかつたさうだが、それはほんたうか。」
「妻のゐる頃は妻が時々やりました。私にはありませんでした。」
「何年踏切につとめてゐる?」
「十九年です。」
「十九年か、ふむ。」これはなかなか気の小さい男だと判事は思つた。
「十九年と云ふと、お前の幾つの時からかね、二十?」
「二十五の時からです。初めはちよいちよい失策をやりました。それでも私は失策つたと思…

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