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ちち
作品ID2160
著者横光 利一
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本横光利一全集 第一巻」 河出書房新社
1981(昭和56)年6月30日
初出「時事新報」1921(大正10)年1月5日
入力者高寺康仁
校正者松永正敏
公開 / 更新2001-12-10 / 2014-09-17
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 雨が降りさうである。庭の桜の花が少し凋れて見えた。父は夕飯を済ませると両手を頭の下へ敷いて、仰向に長くなつて空を見てゐた。その傍で十九になる子と母とがまだ御飯を食べてゐる。
「踊を見に行かうか三人で。」と出しぬけに父は云つた。
「踊つて何処にありますの。」と母は訊き返した。
「都踊さ、入場券を貰ふて来てあるのやが、今夜で終ひやつたな。」
 母は黙つてゐた。
「これから行かうか、お前等見たことがなからうが。」
「私らそんなもの見たうない、それだけ早やう寝る方がええわ。」
「光、お前行かんか。」
 父は子の顔を見た。子は父の笑顔からある底意を感じたので、直ぐ眼を外らすと、
「どうでも宜しい。」と答へた。
 併し子はまだ遊興を知らなかつたし都踊も見たことがないので綺麗な祇園の芸妓が踊るのだと思ふと、実は行きたかつたのだが、父や母と一緒に見に行つてからの窮屈さが眼についた。
「行くなら早い方がええし。」と又父は云つた。
「行きたうないわな、光。」と母は横から口を入れた。
 子は真面目な顔をして、「うむ」と低く答へると母の方へ茶碗を差し出した。が、もう食べるのでなかつたのに、と気が付いたが又思ひ切つて箸をとつた。
「光ひとりで行つて来い。」と父は言つた。すると、
「あんた一人でお行きなはれ。」と直ぐ母は父に言つた。
 父は又笑顔を空に向けた。それぎり三人は黙つて了つた。
 子は御飯を済ますと縁側へ出て、両手を首の後で組んで庭の敷石の上をぼんやり見詰めてゐた。両足がしつかりと身体を支へて呉れてゐないやうに思はれた。
 鶏小舎の縄を巻きつけた丸梯子の中程を、雌鶏が一羽静に昇つてゆく。そのとき石敷の上に二つ三つ斑点が急に浮かんだ。雨だなと子は思つた。母は元気の良い声で
「そうら降つて来た」と云つて笑つた。
 父も笑つた。そして
「なアに止むさ。光ひとりで行つて来んか、あんな札を遊ばしておいても仕様がないし。」
 子は父のさう言ふ言葉の底意に懐しさを感じて来た。
「光らあんな所へ行き度うはないわなア光?」と、母は云つた。
 子はそれに答へずに直ぐ二階へ昇らうとして父の前を通ると、父は体を少し起した。
「よ光、一人で見て来いや。もう今夜で終ひやぞ。」
「もう雨が降るしよしませう。」
 子はさう云つて二階へ来ると窓の敷居に腰をかけた。下腹から力が脱けてゐた。
 空はそれなり雨を落とさずに何時の間にか薄明かるくなつて来た。その下に東山がある。その向ふに京都の街がある。
 二十分程して、他所行きの着物を着た母が腰帯のまま二階へ来た。行くんだなと子は思ふと、気が浮いて、
「何処へ行くの?」と訊いた。
 母は黙つて押入を開けると、下唇を咬んで蒲団の載つてゐるまま長持の蓋を上げた。
「行くの?」と子は又聞いた。
 母は黒く光つた丸帯を出して、
「お父さんつて雨が降つてるのに、」と呟くと、…

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