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隣の家
となりのいえ
作品ID2167
著者与謝野 晶子
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆83 家」 作品社
1989(平成元)年9月25日
入力者土屋隆
校正者noriko saito
公開 / 更新2004-08-31 / 2014-09-18
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私達が去年から借りて住んで居る家の左隣は我国の二大富豪の一として知られた某家の一族の邸である。私の家との間に高さ一丈余りの厚い煉瓦塀が立つて、其上に忍び返しが置かれて居る。その塀に接近して建てられた私の家は全く風通しが悪いので今日此頃の暑さが非常である。おまけに塀の上部に隣の庭の高い木立が黒味を帯びた緑をして掩ひかぶさつて居て、その木蔭から発生する無数の藪蚊が塀を越えて断えず私の家に襲来する。蚊遣線香をのべつに焚いても防ぎ切れない。私の家の多勢が又しても呟き呟きアンモニヤを手足へ附けて居る。大きな体をした悪性の藪蚊で、子供や女中の中には螫された跡が飛ぶ火と云ふ発疹物のやうにじくじくと気持悪るく膿を持つて両脚一面にお医者さんから繃帯をして貰つて居る者さへある。
 其塀の彼方は広い立派な庭になつて居ると聞くだけで、勿論こちらからは見える筈が無い。隣の邸の建物はずつと遠くにあるのであらう、私達は此処へ移つて来てから塀の向ふでする人の笑ひ声一つ聞いたことも無い。いつも塀の向ふは静かである。唯だ夜になると大きな飼犬が邸の内へ放たれると見えて、それの吠える声が聞える。さうして、夜更けて私達が書斎の戸を締めたり、子供達が便所へ行つたり、末の子のために私が牛乳を温めに起きたりする物音の聞える度に、屹度其犬が塀の側へ駈け寄つて私達に吠える。私はその主人に忠実な犬だとぐらゐしか思つて居ないけれども、僻む人には毎晩隣の犬に怪まれねばならないと云ふことがいい感じを与へないであらう。
 富んだ私人の家や公共的の建築が高い、いかめしい、堅固な塀で取巻かれて居ることを私は好ましくないことだと思つて居る。それは他と親まずに秘密主義を守つて居た封建割拠時代の遺風である。館や城に立て籠つて最後まで戦ふ準備を必要とした武士道時代の余習である。また武士と町民との区別がやかましくて、前者が後者に対し形式的に威張り散らした時代の模倣である。もう今の時代に監獄と火薬庫と要塞とを除いて、其様な恐しい塀の設備が必要だとは考へられない。塀は邸の境を分つだけに役立てばよいから、自由に内外の見通せる鉄柵か石の金剛柵かを設けて置けば十分である。欧洲では帝王の家までがバツキンガム宮、[#挿絵]ルサイユ宮のやうに鉄柵の間から自由に覗かれるやうに造られて居る。維納の宮殿などは全く開放的で、其中を民衆が自由に馬車や自動車を駆つて横断して居る。私は靖国神社のやうな国民の崇拝的記念建築がなつかしくない排他的な重苦しい塀で掩護されて居るのを見ると、折々一種の不快を覚えるのである。
 若し私の家も隣の塀が清楚な鉄柵か石の柵であつたら風通しが好くなるであらう。風と日光とが好く通れば隣の庭に藪蚊が発生して私の家族を悩ませることも減じるであらう。また鉄柵の間から隣の立派な庭が覗かれて、どんなに私達の目と心とを爽かにするであらう。偶には…

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