えあ草紙・青空図書館 - 作品カード

作品カード検索("探偵小説"、"魯山人 雑煮"…)

楽天Kobo表紙検索

夢鬼
むき
作品ID2187
著者蘭 郁二郎
文字遣い新字新仮名
底本 「火星の魔術師」 国書刊行会
1993(平成5)年7月20日
入力者門田裕志
校正者宮城高志
公開 / 更新2010-08-23 / 2014-09-21
長さの目安約 120 ページ(500字/頁で計算)

広告

えあ草紙で読む
▲ PC/スマホ/タブレット対応の無料縦書きリーダーです ▲

find 朗読を検索

本の感想を書き込もう web本棚サービスブクログ作品レビュー

find Kindle 楽天Kobo Playブックス

青空文庫の図書カードを開く

find えあ草紙・青空図書館に戻る

広告

本文より



 辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵えの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老も若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊れた肢体を思い出すのである。
 トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。

一ノ二

「莫迦ッ、そんな事が出来ねエのか、間抜けめ!」
 親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴ると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉を、グッと睨みつけるのだった。
 まだいたいけない少年の黒吉は、恐ろしさにオドオドして、
「済みません、済みません」
 そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢の、肩の辺を擦りながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
 饑じさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々と迫って、思わずホロホロと滾した血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲み込んで行った。
 ――ここは、極東曲馬団の楽屋裏だった。
 逆立ちの下手な、無器用な黒吉は、ここの少年座員なのだ。
 鴉黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面から見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
 黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
 それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩めた安白粉の匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
 こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢と、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟り取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
 彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
 黒吉は明かに、他の同輩の少年達から
「オイ、こっちへこいよ」
 と声をかけられる…

えあ草紙で読む
find えあ草紙・青空図書館に戻る

© 2024 Sato Kazuhiko